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【歓喜初後】阿弥陀如来によって信心を賜り、慶び絶えない人生を歩む

もくじ

【歓喜初後の内容】それぞれの単語の意味から考察

歓喜初後」という言葉の意味は文字のままであります。

歓喜」→「よろこぶ、たのしむ」
」→「初めての時」
」→「後に続く(一生涯)」

「歓喜」とは、本願の「信楽」の「楽」の意味であり、信心のすがたであります。

ですので、「歓喜初後」という論題では、

よろこびの心は、信心を賜った初めての時に出てくるものなのか?信心を賜った以降の生涯において出てくるものなのか?

ということを考察します。

※「本願」には信心のことを「信楽」と説かれており、本願の内容を説かれた「本願成就文」では、信楽の部分を「信心歓喜」と説かれております。ゆえに「歓喜」とは、信楽の「」のことであります。

「歓喜」が「信心」でも、初めての歓喜は意識されるべきではありません

「歓喜初後」という論題では、「歓喜正因」「意業安心」「一念覚知」といった誤った見解には決して陥らないように注意を促されております。

「歓喜正因」

「阿弥陀如来のお救いをよろこぶことによって救われてゆく」という誤った考え方。

「意業安心」

「信心」は、「心に思うこと」であるという誤った考え方。

「一念覚知」

いつ信心を賜ったのかを覚えていなければ救われないという誤った考え方。

これらの考え方は、すべて誤りであります。

阿弥陀如来のお救いをよろこんだり、心に思ったり、覚えていないと救われないことになってしまいます。

そうなってしまったら、非常に危険です!

阿弥陀如来のお救いをよろこばないと救われないのならば、阿弥陀如来のお救いのはたらきを当てにするのではなく、私のよろこび心を当てにすることになってしまいます。

「よろこび心」ではなく「信心」によって救われてゆきます

「信心正因」と表現されますように、「私の心」によって救われてゆくのではなく、信心によって救われてゆくのが、浄土真宗のみ教えであります。

もしも信心が「私から出てきたもの」であるならば、失うこともありますし、途切れることもあるでしょう。

しかし、信心とは私が作り出したものではなく、阿弥陀如来より賜るのですから、一度信心が決定したならば、失うことも途切れることもありません。

信心が途切れないのならば、歓喜も途切れないことになります。

人生を歩ませていただくと、腹を立てることもありますし、悲しみに打ち拉がれることもあります。

そのような境涯を歩む私たちが、24時間よろこび続けるということは不可能であります。

ですので、歓喜とは意識的なはたらきではありません。

「歓喜」は「意識のすがた」ではなく「心のすがた」であります

「歓喜」は「信心のすがた」でありますので、阿弥陀如来のお救いに疑いの無くなったすがたとも言うことができます。

ゆえに、従来より「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた促時の心相」と言われてきました。

※「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた促時の心相」とは、「阿弥陀如来のお救いに対する疑いの無くなったその瞬間」という心のすがた。という意味であります。

「歓喜」とは「心のすがた」でありますので、「意識のすがた」ではありません。

それでは「歓喜」とはどのようにあらわれるのでしょうか?

阿弥陀如来によって「信心」が途切れないように「歓喜」も途切れない

親鸞聖人は、『一念多念文意』という書物の中で次のように示されております。

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり。うべきことをえてんずとかねてさきよりよろこぶこころなり。


「歓喜踊躍乃至一念」といふは、「歓喜」はうべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。「踊」は天にをどるといふ、「躍」は地にをどるといふ。よろこぶこころのきはまりなきかたちなり。慶楽するありさまをあらはすなり。

「歓喜」について、身体にも心にもよろこびが溢れるような様子を示されております。

「歓喜」は「信心」と同様に、一瞬も途切れることなく続いていくものであります。

しかし、「歓喜」が絶えずあらわれるという意味ではありません。

信心を賜るまでは、生活の中で仏法を味わうことすらなかった私が、あらゆるご縁と通して仏さまのみ教えをよろこばせていただく身にさせていただけます。

どんなに前向きの人生を送ろうと励んでも、かならずつらい時や苦しい時がやってくるのが人生であります。

そのような時に、生きる元気が無くなってしまうことがあるのが現代の問題の一つでありましょう。

「前を向いて力強く歩くことができなくなった私を、決して見捨てないという阿弥陀如来がいてくださるんだ!」

そのようなよろこびの「心のすがた」が私たちを支えてくれるのではないでしょうか?

信心を賜り、仏法をよろこばせていただく人生が、今を生きる支えになってくださるとつくづく思い知らされるところであります。

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