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【三心一心】阿弥陀如来に疑いのない信心を賜った今を大切に生きる

もくじ

阿弥陀如来の本願に誓われた「三心」は「一心」におさまります

「三心一心」は、文字の通りに「三心」と「一心」ということであります。

「三心」というのは、阿弥陀如来のご本意である本願に誓われた「三つの心」であります。

「三つの心」が「一心(信楽)」におさまることをあきらかにするのが「三心一心」でありますが、ここでは便宜上、「三つの心」と示しておきます。

その本願とは、次のようなお誓いであります。

設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法

ここで誓われております「至心」「信楽」「欲生」の三つの心を「三心」と言います。

「三心」とは「至心・信楽・欲生」という三つの心

「至心」とは、「まことの心」であり「真実心」という意味

親鸞聖人は次のように示されております。

この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。

つまり、「あらゆるいのちをお浄土に生まれさせ仏のさとりを開かせる」という本願のままに、阿弥陀如来より与えられた真実の心ということであります。

「信楽」とは、阿弥陀如来のお救いに疑いのない信心のこと

親鸞聖人は、次のように示されております。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。

信楽とは、すべてのいのちを救うという願いのままに、すべてのいのちを救うことを確信されている海のように広大な阿弥陀如来の心を本体とするものでありますので、疑いの余地すらないことを示されております。

「欲生」とは、すでに決定しているお浄土に生まれることを待ち望む心

親鸞聖人は、次のように示されております。

次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。

欲生とは、「私がお浄土に生まれたい」と願う心ではなく、「私の国に生まれたいと思ってください」と、阿弥陀如来が私を招き喚び続けておられることであると示されております。

※「三心一心」の論題でありますので、ここでの「三心(至心・信楽・欲生)」は、いずれも「本願文」の三心を『教行証文類』で解説されているものを引用しました。

なお、親鸞聖人は『尊号真像銘文』においても、次のように詳しく示されております。

「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。
(中略)
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。
(中略)
「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて、安楽浄土に生れんとおもへとなり。

「一心」は、天親菩薩が示された一心のこと

「一心」とは、天親菩薩の書かれた『浄土論』の冒頭の言葉であります。

世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。

お釈迦さまに、「ただ一心に阿弥陀如来にお任せし、お浄土に参らせていただきます」と信仰を告白されております。

この「一心」に、先の本願に説かれている「至心・信楽・欲生」の「三心」がおさまることをあきらかにするのが「三心一心」という論題であります。

「三心一心」の疑問が出される『教行証文類』「三一問答」の構成

親鸞聖人の主著である『教行証文類』「三一問答」という箇所が、浄土真宗の肝要である信心について述べられているところでも中核部分になります。

その「三一問答」は、二つの問答によって成り立っております。

本願に「三心」が誓われているのに、なんで天親菩薩は「一心」って言ったの?

「三一問答」では、次のように問われております。

問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに論主(天親)「一心」といふや。

この問答では、「三心」のそれぞれの意味を、文字の意味に注目して解釈されます。

「至心」「信楽」「欲生」のすべてが疑いの無い心であるから「信楽」であることをあきらかにされます。

すなわち、「三心」は信楽の「一心」におさまることをあきらかにされます。

「一心」で救われるってわかったけど、なんで本願は「三心」で誓われたの?

「三一問答」では、次のように問われております。

また問ふ。字訓のごとき、論主の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。

この問答では、「一心」の広大な徳を法義よりあきらかにされます。

清らかな心も真実の心も持ち合わせていない私に「至心」「信楽」「欲生」はあるはずありません。

そのような私に代わって、阿弥陀如来は三心を起こしてくださいました。

三心の功徳は、「南無阿弥陀仏」となって現に私に施し与えられております。

阿弥陀如来より与えられた心であるので、賜る私の心はただ疑いの無い一心であります。

すなわち、一心に三心の徳義はすべておさまっておりますので、本願に三心が誓われておりますが、疑いの無い「一心」によって救われてゆくのであります。

本願に誓われた「三心」は阿弥陀如来からの賜りもの

ご信心は阿弥陀如来より賜ったものであります。

私の心として成立しておりましても、決して私から出てきたものではありません。

「三一問答」の中にも、本願の三心は阿弥陀如来からの賜り物であることを示す言葉が多くあります。

「欲生」は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。


如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。


この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。


この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。


このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。

阿弥陀如来より賜ったのが信心でありますから、他の方と信心を競うなんてことをする必要はありませんし、「信心を誇ること」ほど悲しいことはないでしょう。

浄土真宗というみ教えは、他人と競うしかできなかった私の価値観を変えてくれるみ教えであると、つくづく思い知らされます。

競うどころか、「相手を認める」という心の領域を与えてくれます。

同じご信心を賜った者同士で認め合い、ともによろこんでいくというのが、浄土真宗のみ教えを聞かせていただくものの生き方なんでしょうね。

そうできない私の心を恥ずかしく思うばかりであります。

賜りものの「三心」は私の心としてはたらきます

親鸞聖人は、次のように示されております。

この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

至心の体は名号

信心は、名号南無阿弥陀仏という阿弥陀如来のおはたらきによって出来上がっている


すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。

信楽の体は至心

阿弥陀如来のはたらきによって成立する真実心によって、疑いの無い心が生じている


すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。

欲生の体は信楽

信心には、「お浄土に生まれることが間違いない」という欲生が具わっている

名号南無阿弥陀仏のおはたらきによって信心は成立するのであり、信心とは「阿弥陀如来のお救いに疑いの無い心」であり、信心には「お浄土に生まれることが間違いない」という想いが具わっていることを示されております。

ゆえに、至心は信楽の体であり、欲生は信楽に具わっておりますので、「三心」は私の心であることもあきらかでしょう。

その場合においても同様で、至心と欲生は信楽一心におさまっております。

浄土真宗は今を生きる私のみ教えであることを知らされます

浄土真宗とは、亡くなってから必要なみ教えではありません。

今を生きる私の人生の指針を与えてくれます。

それは、「三心一心」の論題からもあきらかです。

至心」とは真実心であり、阿弥陀如来のお救いに疑いの無い心である信楽の本質(体)であります。

ゆえに、信心を賜ったならば、真実心を作り上げようとはからう必要はありません。

作り上げるのではなく、阿弥陀如来の真実心を賜っている今を味わうべきでしょう。

そして「欲生」とは「お浄土に生まれること間違いなし」という心であります。

この欲生の無い人生は、「まだ自分の行き先がわからない」という不安を抱えて生きなければなりません。

欲生は信楽に具わっているのですから、信心を賜ったその時から、「お浄土という明確な目的地」のある安心の人生を歩ませていただけます。

その人生を歩むのは、信心を賜る「今」であります。

阿弥陀如来のお救いに疑いの無い信楽を賜る「今」であります。

そのような、今をより力強く歩ませてくださる浄土真宗というみ教えをともに聞かせていただきましょう。

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