【信一念義】言葉の意味とここで明らかにされる内容について
「信一念義」という文字だけ見れば、何のことやらさっぱりわかりませんね。
- 「信」は「信心」
- 「義」は「意義」
ということは容易に想像がつくかと思われます。
ですので、「一念」という言葉の意味がわかれば「信一念義」の意味も自ずとあきらかになるでしょう。
親鸞聖人は、「一念」について次のように示されております。
一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
要するに、「一念」とは、信心が決定した「時剋の極促」と示されております。
つまり「信一念」とは、「信心が始まる最初の時」ということであります。
「信一念」とは、「信心が始まる最初の時」でありますので、その時に私たちがお浄土に参らせていただくことが決定するということになります。
ということは、私たちの救いが決定する因は「ただ信心一つ」であることも明確にされます。
「信心を賜った時を覚えている!」というのは誤った見解です
信心を賜った時を覚えているという間違った考え方があるようであります。
覚える必要はありませんが、「一念覚知」と呼ばれております。
この一念覚知には、「信心を賜っている時に、今、信心を賜っている」と知るという説と、後になって「あの時に信心を賜ったのである」と知るという説があります。
どちらにせよ、この説では、「信心を賜った時を覚えていないといけない」という考えに陥ってしまいます。
私たちの救いは信心を賜った時に決定するのは明らかなことでありますが、「一念覚知」の説では、「その時を覚えているか否か?」という問題にすり替わってしまいます。
ただの記憶力の問題になってしまいます。
私の記憶力によって信心が決定するのでは、救いは完全に「私の心」次第になってしまいます。
浄土真宗というみ教えでは、「私の持っているもの」はお浄土参りに何の役にも立たないことをあきらかにされます。
ただ阿弥陀如来のおはたらきである「本願力」によって救われてゆくのですから、「一念覚知」はあきらかに間違った考え方であると言えるでしょう。
浄土真宗は「過去」お救いではなく「今」のお救いを聞く
阿弥陀如来の「本願力」は、今、南無阿弥陀仏と私たちに至り届いております。
南無阿弥陀仏となって至り届いている阿弥陀如来のお心を聞かせていただくままが信心であります。
「何年何月何日何時何分に私は信心を賜った」
という、自分の記憶をあてにして誇ることは悲しいことです。
「聞いたこと」が信心ではなく、「聞いているまま」が信心なのですから、あきらかに、「今」が大切です。
今、お救いが至り届いていること現実を、ともによろこばせていただきましょう。
日々の生活の中で湧き上がるのが本当の信心のすがたです
今ページの最初の方に、次の親鸞聖人のお言葉を引用しました。
一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
ここで、「広大難思の慶心」と示されております。
「思い計ることができないほど広大なよろこびの心」が信心のすがたであります。
決して、救いについて、「私の意識や覚知」はあてにされるべきものではありません。
それでは、信心を賜っても何も変わらないのでしょうか?
誰が見てもわかるような変化はないでしょう。
しかし、「広大難思の慶心」と言われますように、日々の生活の中で阿弥陀如来のお救いをよろこび、仰がせていただけるという「信心のすがた」を賜ります。
私たちが手にいれた「よろこびの心」は、いつまでも続くものは一つもありません。
必ず失う時がやってきます。
しかし、阿弥陀如来のお救いだけは失うことはありません。
私の歩む人生をいつまでも照らし続け、常にお護りくださっております。
そんな阿弥陀如来に抱かれたよろこびを途切れ途切れではありましても、味わわせていただく心豊かな人生を賜った今を、より力強く歩ませていただきたいものです。