【仏凡一体】それぞれの単語の意味から内容を考察
まずは、「仏凡一体」という言葉の意味が分からなければ味わうことができません。
ですので、「仏」「凡」「一体」に分けて、言葉の意味を明確にします。
「仏」=「仏心」
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「如来のよき御こころ」
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清浄真実の心
「凡」=「凡心」
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「行者のわろきこころ」
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虚仮不実の心
「一体」=「ひとつになる」
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「行者のわろきこころを如来のよき御心とおなじものになしたまふ」
阿弥陀如来より信心を賜ったならば、仏心と凡心が一体になると蓮如上人はお示しになられます。
蓮如上人のお示し
一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。
さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。
それは、阿弥陀如来のお救いのはたらきが、私たちの虚仮不実の心を場としてはたらいている意味であります。
決して、私たちの虚仮不実の心が、清浄真実の心になるのではありません。
「仏の心」と「私の心」はどのように一体になるのでしょう?
「一体」は「ひとつになる」ということ
仏心と凡心とは、当然のことながら別々の心ですよね。
その別々の心が「ひとつになる」のがここでの「一体」であります。
「元々ひとつの心」というのではなく、「別々のものがひとつの心」になるのであります。
「ひとつになる」とは転ぜられること
一言で「ひとつになる」と言いましても、「仏心」と「凡心」それぞれの存在をはじめ、様々な事態が想像されます。
親鸞聖人は、『教行証文類』において、川と海の喩えを通して「ひとつになる」とはどのような事態かを明確に示されております。
「海」といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる。これを海のごときに喩ふるなり。
どんな川の水も、広大な海に流れればひとつになります。
同様に、嘘や偽りばかりで真実のない私たちの心も、阿弥陀如来より信心を賜ったならば海のように広大な阿弥陀如来の真実の心とひとつにさせていただけます。
しかし、決して、私たちの心が無くなってしまったのではありません。
真実でないものを真実に転じてしまう阿弥陀如来のおはたらきが、私たちの心に至り届いたことを示されております。
【ひとつになる】阿弥陀如来の救いに遇わせていただいた尊さがあります
自己中心な私の心がなくなるのではありません
親鸞聖人は、自己中心的な思いを抱えてしか生きることのできない私たち凡夫のすがたについて、次のように示されております。
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
自己中心な思いにより欲望を起こし、腹を立て、妬む心が無くなることはありません。
「臨終の一念」と示されますように、命を終える時まで自己中心的な思いを抱えて生きなければならないのが私の本当のすがたであります。
そのような私が、阿弥陀如来のおはたらきにであわせていただいたからといって、阿弥陀如来のような真実の心をこの世で身に付けることができないのは当然のことであります。
「阿弥陀如来の救い」は「私たち自身」とひとつ
今、阿弥陀如来のお救いのはたらきは至り届いております。
「阿弥陀如来のお救いのはたらき」と「私たち自身」は切り離すことはできません。
つまり、私たち自身が、阿弥陀如来のお救いのはたらきの場そのものであります。
要するに、「ひとつになる」ということであります。
私たちはどこまでも自己中心的な心が無くなることはありませんが、その私に阿弥陀如来ははたらき通しでありますので、阿弥陀如来の真実の心としての功徳を賜っているということができます。
私の心は真実にならなくても、阿弥陀如来の心とひとつであります
私の心に変化が起こったり、今すでに仏になるということは決してありません。
だからと言って、阿弥陀如来は別々のところにいらっしゃるのではありません。
私たち自身が阿弥陀如来のお救いの場そのものであります。
煩悩を抱えたまま、阿弥陀如来の真実の心に転ぜられ、お救いを賜っていることを知らされる人生を、ともに歩ませていただきましょう。