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【六字釈義】南無阿弥陀仏というたった六字の言葉の意義と有難さ

もくじ

【六字釈義】南無阿弥陀仏という六字で救われるか否か

「六字」とは「南無阿弥陀仏」の六字でありますので、「六字釈義」とは、南無阿弥陀仏についての、様々な祖師方の解釈の意義ということであります。

現代では、様々な宗教があります。

その理由は挙げていけばキリがないほど多様にわたっております。

同様に、仏教にも様々なみ教えがあります。

仏のさとりを得るという目標を達成するためにはたくさんの方法があるので当然のことであります。

ちなみに、私が南無阿弥陀仏のみ教えじゃなければ仏になれないから浄土真宗のお坊さんとして生きさせていただいております。

仏教のみ教えの数が多いように、誰もが南無阿弥陀仏で救われ用としている訳ではありません。

南無阿弥陀仏を否定するみ教えもあります。

「南無阿弥陀仏では救われない」

そう主張される方々もおられますし、過去にも大勢おられました。

南無阿弥陀仏では救われない」と主張される方々に「南無阿弥陀仏で救われる」ことをお説きになられた方の一人に、中国の善導大師という方がおられます。

中国の善導大師
が明らかにされた南無阿弥陀仏のお救い

善導大師は、次のように示されました。

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。いかんが具足する。「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。

『仏説観無量寿経』に、悪事ばかりはたらいてきた悪人が、いのちを終えるその時に南無阿弥陀仏と称えて救われてゆくことが説かれております。

しかし、「南無阿弥陀仏では救われない」と主張される方々がおられました。

その理由に、南無阿弥陀仏とは、ただ「阿弥陀如来のお浄土に生まれたい」と「願」を表明しているだけであり、南無阿弥陀仏には「私たちをお浄土に進ませるはたらき」である「行」がないと主張されているのでした。

そこで、善導大師は上に挙げた言葉を示されたのであります。

「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。

南無阿弥陀仏の「南無」は「願」であり、「阿弥陀仏」は「行」であります。このように、南無阿弥陀仏には「願」と「行」がありますので、間違いなくお浄土に生まれることができます。

当然のことながら、私が南無阿弥陀仏と称える行為にはお浄土に生まれるはたらきはありませんので、「行」と言えません。

しかし、阿弥陀如来のおはたらきには、私たちをお浄土に生まれさせるはたらきがありますので、「行」があります。

このように、善導大師は南無阿弥陀仏で救われることを理論的に示されたのでした。

善導大師のお示しを承けた親鸞聖人の南無阿弥陀仏のお示し

善導大師のお示しを承けて、親鸞聖人は南無阿弥陀仏の六字全体の三つの意義を示されます。

「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。「即是其行」といふは、すなはち選択本願これなり。

ここで南無阿弥陀仏とは、

  • 本願招喚の勅命
  • 如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心
  • 選択本願

であると示されております。

【本願招喚の勅命】南無阿弥陀仏の出所を明確にされた

南無阿弥陀仏とは、阿弥陀如来からの呼びかけであります。

南無阿弥陀仏とは、確かに私が称えております。

しかし、私が称えているという現実は、阿弥陀如来のお誓いが私のもとではたらいている現実であります。

私に南無阿弥陀仏を称えさせようというはたらきがあって、私がお念仏を称えていることを忘れてはなりません。

南無阿弥陀仏とは、「かならずたすける」という阿弥陀如来のお心が私に至り届いたことでありますので、そのおはたらきのままに、阿弥陀如来がいつも私を喚び続ける声でもあります。

【如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心】私の行も…

南無阿弥陀仏とは、阿弥陀如来のお救いのはたらきが、私のところではたらいていることであります(大慈悲心)

阿弥陀如来は、私たちを救うはたらきを完成させるだけではなく、そのはたらきが私たちのところではたらくようにとお誓いになられました。

当然のことでありますが、私たちを救うはたらきを完成されたとしても、私のところではたらかなければ意味をなしえません。

今、私たちが生きている場が阿弥陀如来のお救いのはたらきの場であることを知らされます。

【選択本願】阿弥陀如来が選び取られた真実の行が南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏とは、私を救うお誓いのままのおはたらきであります(闇を破る智慧)

「選択本願」とは、阿弥陀如来のご本意である本願のことであります。

ここでは本願に誓われた行の意味で、「念仏」のことであります。

阿弥陀如来は、念仏となって私を救いとるためにはたらき通しであります。

また、南無阿弥陀仏そのものが本願を完成されたすがたであります。

要するに、本願を完成されたままに、南無阿弥陀仏となってはたらき通しの阿弥陀如来であることをあらわされております。

誰もが必ず救われるたった六字の南無阿弥陀仏を賜る「今」

ここまで、善導大師や親鸞聖人の南無阿弥陀仏の解釈を味わってまいりました。

南無阿弥陀仏には、広大な功徳が込められていることがわかります。

そして、南無阿弥陀仏が私のところではたらいていることに、ただ私を救うための阿弥陀如来のお心を感じるかと思われます。

様々な宗教や、様々な仏教のみ教えがありますが、自信を持って言いたいですね。

「南無阿弥陀仏で救われる!」

何の迷いもなく言えるほどの南無阿弥陀仏を、今、当たり前のように恵まれているのですから。

南無阿弥陀仏の人生を、これからもともに歩ませていただきましょう。

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