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【正定滅度】今、阿弥陀如来に信心を賜り、お浄土に生まれて仏になる。

もくじ

【正定滅度】超難しそうな言葉だから丁寧に解説します

「正定滅度」という言葉は、「正定」と「滅度」に分けることができます。

どちらも、仏のさとりを開く利益を示されている言葉であります。

「正定とは「正定聚」という言葉を略したものであります。

「正定聚」のには「なかま」という意味がありますので、「仏になることが正しく定まったなかま」という意味であります。

しかし、親鸞聖人は仏になることが決定する「成仏決定」ではなく、お浄土に生まれることが決定する「往生決定」とお示しになります。

阿弥陀如来のおはたらきによってお浄土に生まれさせていただくことは、そのまま仏のさとりを開かせていただくことであります。

そして、阿弥陀如来のおはたらきによってのみ、仏のさとりを開かせていただけますので、「お浄土に生まれること」と「仏のさとりを開くこと」。つまり往生と成仏は一つの事態であります。

ゆえに、成仏決定はそのまま往生決定ということになりますので、親鸞聖人は往生決定の意味で示されております。

「滅度」の「度」は「わたる」という意味であります。

ゆえに滅度とは、「迷いをしてさとりの世界にわたる」ことであります。

「正定聚」と「滅度」の利益はいつ得るのかを抑えることが大切

正定聚とは信心を賜る時に得る利益です

親鸞聖人は、次のように示されております。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。
(中略)
十には正定聚に入る益なり。

ここでの「金剛の真心」とは信心のことでありますので、信心を得ると「正定聚に入る」という利益を得ることになります。

正定聚であるから必ず滅度の利益を得ます

親鸞聖人は次のように示されております。

しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。

信心を得て「正定聚に入る」と「かならず滅度に至る」と示されております。

信心を得たからこそ、滅度の利益を得ると示されているのですが、ここからが注意が必要です。

親鸞聖人は「正定聚」と「滅度」を明確に区別されております

親鸞聖人は「正定聚」と「滅度」について、次のように示されております。

正定聚

正定聚はお浄土に生まれるまで

浄土へ往生するまでは、不退の位にておはしまし候へば、正定聚の位となづけておはしますことにて候ふなり。
(中略)
信心の定まると申すは、摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべしとみえ候ふなり。


滅度

「滅度」は往生と同時

大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり。

「滅度」は命を終えるとき

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。

上に挙げた引用により、親鸞聖人は「正定聚」と「滅度」の利益を厳密に区別されていることがわかるかと思われます。

「正定聚」とは、信心を賜った時に得る利益であり、お浄土に生まれるまでの利益であります。

そして「滅度」とは、お浄土に生まれる時であり、この世界での命を終えた時の利益であります。

ですので、この世界で信心を賜っている今、滅度の利益を得ることはありえません。

浄土真宗の教えでは、この世で仏になれないことを示されております

親鸞聖人はこの世で信心を賜ったならば往生決定することをお示しになられますが、この世で滅度の利益を得ることはお示しになりません。

滅度の利益は、往生と同時であり、この世での命を終えるときと同時の時に得る利益であります。

浄土真宗の法義では往生と成仏は同義でありましても、別々の利益であることには注意しなければなりません。

つまり、この世で仏のさとりを開くということは、浄土真宗のみ教えではありえないことであります。

今は、「私がお浄土に生まれること」と、「仏のさとりを開かせていただくこと」が間違いないことをただよろこばせていただくままの生活を送らせていただきましょう。

私たちは、間違いのないゴールを、南無阿弥陀仏に賜った人生を歩ませていただいているんです!!

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