「彼此三業」という言葉の意味から内容を考察致します
「彼此三業」という四文字の言葉では何のことやらさっぱりわかりませんので、「彼」「此」「三業」という三つの言葉に分けてみていきましょう。
「彼」
↓
「阿弥陀如来」のこと
「此」
↓
「私たち」のこと
「三業」
↓
本来は「身業」「口業」「意業」のこと
ただしここでの「三業」は、
私たちの「称・礼・念」
阿弥陀如来の「聞・知・見」
善導大師は「私たち衆生の三業」と「阿弥陀如来の三業」の関係について、次のように示されております。
衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。
身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。
心につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。
衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。
彼此の三業あひ捨離せず。
上に挙げた引用より、私たち衆生の「称・礼・念」と、阿弥陀如来の「聞・知・見」はそれぞれ対応していることがわかります。
ゆえに、「彼此の三業あひ捨離せず」と示されております。
「彼此三業」とは、私たちの三業と阿弥陀如来の三業は決して離れることがないことを示す論題であります。
阿弥陀如来によって三業は完成されているから離れることがない
「彼此三業」での「私たち」とは、阿弥陀如来より信心を賜った私たちのことであります。
私たちを救うために阿弥陀如来がされた修行は、身体も口も心も、乱れることはありませんでした。
善導大師は次のように示されております。
まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。
乱れることなく、真実の心のままに三業の修行をされ、私たちを救うはたらきになられたのが阿弥陀如来という仏様であります。
その阿弥陀如来のおはたらきによって、私たちは信心を賜ります。
そして、信心を賜ったならば、自ずから私たちに、阿弥陀如来の名を称え、阿弥陀如来のことを想い、阿弥陀如来に礼拝するという三業があらわれてきます。
つまり、阿弥陀如来の三業によって、私たちの三業は完成されておりますので、「彼此の三業あひ捨離せず」と善導大師はお示しになられたのでありました。
三業は救いの要因ではない。むしろ感謝を教えてくれる
「彼此三業」をあらわす善導大師のお示しには、「衆生行を起して」という言葉がありました。
この言葉は、信心が定まった後をあらわす言葉であります。
もしも、信心が定まったその時に三業があらわれるのならば、三業があらわれなければ信心を賜っていないということになり、救いの因を満たしていないことになってしまいます。
しかし、信心が定まった後に「衆生行を起して」でありますので、三業は救われる因にはなりません。
ですので、私たちが「おたすけになってください」と三業の乱れることなくたのむことが信心というのは、明らかに誤った考えであります。
信心を賜った後に、自然と三業があらわれてくださることを、ただ感謝させていただくべきであります。
信心を賜った明確な外面の変化はなくとも内面が変革されている
信心を賜っても、見た目の変化や、知識に違いが出るわけではありません。
しかし、阿弥陀如来の方を向かうことや、阿弥陀如来の名を称えさせていただくことや、阿弥陀如来のことを想わせていただくこと。
そのような三業を、私たちは持ち合わせておりませんでした。
さらに、その三業は、阿弥陀如来の三業と対応しており、いつも阿弥陀如来がご一緒の人生観を与えてくれます。
信心を賜っても、外面状には変化はなくとも、阿弥陀如来という究極の心の拠り所がおられる安心の中で、一歩ずつ前を向いて歩かせていただけます。
私たちが出遇わせていただいている浄土真宗というみ教えは、私たちに生きる元気を与えてくれることを、よくよく思い知らされます。