【十念誓意】信心で救われるにも関わらず「十念」と念仏をお誓い
阿弥陀如来のご本意のお誓いである「本願」は次のようなお誓いであります。(難しいですが、漢文で失礼致します・・・)
設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法
太字の箇所に注目して頂ければと思います。
「至心信楽欲生我国」というのは、私たちの信心を誓われた箇所です。
「乃至十念」は、「10回ほどのお念仏」と、「念仏」を誓われた箇所であります。
ここで一つ疑問です!
浄土真宗では、私たちの救いは信心一つで成立します。
「救われ難い私たちを救うため」にお誓いになられたのが阿弥陀如来でありますので、誓うのは信心だけでよかったはずであります。
なのに、なぜ「乃至十念」と、「念仏」まで誓われているのでしょうか?
「念仏」を誓われた阿弥陀如来のお心を窺うのが「十念誓意」という論題であります。
ですので、「十念誓意」とは、「十念と誓われた意味」ということであります。
信心を賜り、南無阿弥陀仏のお念仏の生活を送らせていただく
親鸞聖人は、『教行証文類』の中に次のように示されております。
真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。
親鸞聖人のお示しにより、阿弥陀如来より信心を賜ったならば、お念仏の生活を送らせていただくことは明らかでありましょう。
ただし、「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」と示されていることには注目しなければなりません。
たとえどんなに「南無阿弥陀仏」と称えていても、そのお念仏を「私の手柄」としたり、お念仏を称えるという功徳によってお浄土に生まれようとするのは、まったく阿弥陀如来より賜る信心に基づいておりません。
そのようなお念仏を唱えていることはそのまま、「私のはからい心」であり、阿弥陀如来のお誓いに基づいた信心ではありません。
信心は、阿弥陀如来のおはたらきによって恵まれるものであります。
そして、阿弥陀如来のおはたらきは南無阿弥陀仏であります。
ですので、信心とは南無阿弥陀仏であると言えます。
南無阿弥陀仏が口の上に活動するのは当然のことであり、それを「念仏」と言います。
つまり、信心そのものが、南無阿弥陀仏の念仏を生み出す必然性を持っているということであります。
※当然のことながら、「信心を賜った瞬間に念仏が出る」のではありません。それでは念仏という私の行為が関与することになってしまい、明らかに親鸞聖人のみ教えと相違してしまいます。
お念仏が出てくる尊い「今」を阿弥陀如来に恵まれております
親鸞聖人は、次のようにお示しになっております。
本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり。称名の遍数さだまらずといふことを。この誓願は、すなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきはまりなきことをしめしたまふなり。
ここで、阿弥陀如来が回数すら定まっていない念仏をお誓いになられた理由について、「この誓願は、すなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきはまりなきことをしめしたまふなり」と示されております。
「易往易行のみち」称え易く保ちやすいお念仏の人生
一度賜った信心が消え失せることはありません。
信心が続いていくということは、念仏の人生も続いていくということであります。
念仏を称えるのには何の資格も必要ありません。
特別な準備も必要ありません。
いつでもどこでも、出てくださいます。
ゆえに、「易往易行のみち」であります。
「大慈大悲のきはまりなき」すべての命が同じように救われる
お念仏の回数が定められていないということは、一度しか称えられない方もおられますし、いのち続く限り称えられる方もいらっしゃいます。
念仏の回数に関係なく、誰もが同じように救われてゆく阿弥陀如来のお誓いであります。
それほどの阿弥陀如来のお誓いであります。
ゆえに、「大慈大悲のきはまりなき」であります。
阿弥陀如来のはたらきのままにお念仏が出てくる尊い人生を歩む
信心を賜り、お念仏の人生を歩ませていただくということは、阿弥陀如来のお救いが私にはたらき続けておられるということでもあります。
お念仏が出てくるということは、阿弥陀如来のお救いが届いている証拠であり、阿弥陀如来のお救いをよろこぶ感謝の心が続いていることでもあります。
頭で阿弥陀如来のお救いを理論的に考えてよろこぶのではなく、今、お念仏が届いているという現実を通して阿弥陀如来のお救いをよろこぶ人生を歩ませていただきましょう。
いいことばかりではない人生でありますが、南無阿弥陀仏を恵まれている今、阿弥陀如来のお救いがいたり届いている今であります。
それほど尊い南無阿弥陀仏の出てくる人生をともによろこばせていただきましょう。