【タノムタスケタマヘ】お祈りではなく浄土真宗の信心をあらわす
「タノムタスケタマヘ」というのは、「たのむ」「たすけたまへ」という表現のことであります。
浄土真宗本願寺派八代目宗主の蓮如上人が書かれた『御文章』というお手紙の中で頻繁に出てまいります。
たとえば、日常のお勤めでも拝読されることがありますし、みなさまがお持ちのお経本にもおそらく記載されております「末代無智章」では、次のように出てまいります。
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、
「たのむ」古語のたのむと現代のたのむでは用途が違っている?
おそらく、「たのむ」という語からは、「お願いする」ことを連想される方が多いのではないでしょうか?
そう考えれば、上に挙げた『御文章』の「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて」の意味は、「二心なく、阿弥陀如来に助けてくださいとお願いして」という意味になります。
しかし、これでは阿弥陀如来が先だった浄土真宗のみ教えと合致おりません。
実は、「たのむ」の解釈が間違えているのであります。
「現代のたのむ」は「お願いする」という意味がほとんどでありますが、「古語のたのむ」は、「たよる」「まかせる」という意味がほとんどです。
「たすけたまへ」必死にお願いしている言葉のように聞こえますが・・・
「たすけたまへ」という表現で、「たすけてくれ〜!」ってお願いしているわけではありません。
「たすけたまへ」とは、「たすけたまふ」という言葉の命令形であります。
ゆえに、「たすけたまへ」は「おたすけになる」という意味になります。
『御文章』の「たすけたまへ」はその意味でありますので、「おたすけになってください」という意味であります。
「たすけたまへとたのむ」祈願ではなく浄土真宗の信心そのもの
ここまでの考察で、『御文章』のお示しは親鸞聖人のみ教えと相違しないことがあきらかになりました。
つまり、「たのむ」「たすけたまへ」の二つの言葉を組み合わせた「たすけたまへとたのむ」とは、「どうぞおたすけになってくださいと、たよる」という意味であります。
決して、阿弥陀如来にお祈りしているんじゃないんですね。
救いが先の阿弥陀如来でありますから、そのままお任せするばかりであるという信心を示された言葉でありました。
親鸞聖人は「憑」という漢字をご使用になられました
「憑く」と書いたら「つく」と読みます。
「取り憑く」という意味です。
まぁ全く関係ありません。笑
「憑」という言葉について、親鸞聖人は主著である『教行証文類』において、次のように示されております。
難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。
どのような方であろうと、どのような病人であろうと、阿弥陀如来のお誓いをただお任せし、信心を賜るならば、阿弥陀如来が哀れんでお救いになられることを示されております。
「大悲の弘誓を憑み」とは、「阿弥陀如来のお誓いにお任せする」という意味でありますが、実は「憑み」とは、「たのみ」と読みます。
ゆえに、親鸞聖人は「たのむ」という言葉で他力の信心を表現されておられることがわかります。
※親鸞聖人は、『唯信鈔文意』という書物に「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」と示されております。
これも「たのむ」という語で他力の信心を示されている明確な根拠であります。
阿弥陀如来が先手のお誓いだから「懇願」ではなく「許諾」です
「たすけたまへ」という言葉は「してください」という意味に聞こえがちです。
それでは、一般的には「懇願」する意味になることが多いです。
しかし、必ずしも懇願にはなりません。
相手が「たすけたい」と先に発言していた場合、「たすけたまへ」は「してください」ではなく「おたすけになってください」という意味になるでしょう。
「たすけたまへとたのむ」とは、私が阿弥陀如来に先に言っているのではありません。
阿弥陀如来のお誓いが先なので当然のことであります。
私が気付く前から、私を目当てにはたらき通しの阿弥陀如来であります。
その阿弥陀如来のお誓いを受け入れて、「おたすけになってください」と「許諾」しているすがたであることをあきらかにするのが、「タノムタスケタマヘ」であります。
「たのむ」ことすら阿弥陀如来のおはたらきがあるから
「たのむ」とは阿弥陀如来より賜る「他力の信心」であります。
信心とは、私が作り出したものではなく、阿弥陀如来の真実の心が至り届いたすがたであります。
ですので、阿弥陀如来のお救いを「たのむ」私のすがたそのものが、実は阿弥陀如来のおはたらきのすがたであると言えるでしょう。
「かならずたすける」という阿弥陀如来のお誓いに、「おたすけになってください」とお救いの尊さを仰ぐところまでお育ていただいた今を、ともに歩ませていただきましょう。