想像すらできないほどの時間をかけて考えられた私への救い
五劫思惟之摂受
五劫思惟してこれを摂受す。
法蔵菩薩は、五劫という想像すらできないほどの時間をかけて願いを起こされました。
前の句では、法蔵菩薩のために世自在王仏はお浄土を建てるための修行を説かれておりました。
そして、今回の句では、世自在王仏が説かれた210億という国々から、想像すらできないほど長い時間をかけて法蔵菩薩は選び取られ、私たちの救いを成し遂げられたことを讃えられております。
今、南無阿弥陀仏と私たちのもとに到り届いている阿弥陀如来の願いの結晶が如何に尊いものか、私は強く実感させていただくところであります。
私たちを救うには途方もない時間が必要でありました
今回の句のシーンについて、『仏説無量寿経』では次のように説かれております。
五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す
法蔵菩薩は、五劫の間、思いをめぐらして、お浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選びとられました。
親鸞聖人の師匠であります法然聖人の門弟で、親鸞聖人の兄弟子にあたる聖覚法印は『唯信鈔』という書物の中で次のように示されております。
(中略)
これをえらぶこと一期の案にあらず、五劫のあひだ思惟したまえり。210億もの様々な仏さまの国の中から、特に勝れているところだけを選び取り、阿弥陀如来はお浄土を建てられました。
(中略)
阿弥陀如来がお浄土を建てるのに考えられた時間は、決して普通に思考するくらいの時間ではありません。私たちの想像を超えるほどの時間であります。
法蔵菩薩が「あらゆるいのちを救いとりたい」という願いを起こし、お浄土を建てられ、考えられた遥かなる時間が「五劫」であります。
それでは、「劫」とはどのくらいの長さを示す言葉なのでしょうか。『雑阿含経』という経典に、「劫」の長さについて「芥子劫」、「盤石劫」という二種類の説明がされてあります。
「芥子劫」
四方と高さが1由旬(およそ60㎞)の鉄城があり、その中に芥子の実を充満し、百年に一度、一粒の芥子の実を持ち去ってすべての芥子の身がなくなっても、まだ劫は終わらない。
「盤石劫」
四方と高さが1由旬の巨大な石があって、一人の男が毛氈で百年に一度その石を払い、その盤石が摩擦でなくなってしまっても、まだ劫は終わらない。
きっと、どのくらいの長さを示されているのか想像すらできないと思います。笑
「一劫」ですらはかり知れない時間でありますので、「五劫」とはとてつもない時間になることが予想されますよね。ちなみに、阿弥陀如来に関して、よく「劫」という単位が出てまいります。
法蔵菩薩の思惟は「五劫」でありますが、阿弥陀如来になられるまでの修行期間は「兆載永劫」、成仏されて今日まではおよそ「十劫」、阿弥陀如来の寿命は「阿僧祇劫」、また世自在王仏の国土での寿命は「四十二劫」だといわれております。
※「兆」は十の十二乗、「載」は十の四十四乗、「阿僧祇」は十の六十四乗であります。
救われ難い私であると知らされる今回の句でありました
阿弥陀如来が願いを果たし遂げるために想像すらできないほどの時間がかかった理由はたった一つであると思います。
それは、
「私を救う」ことは、それほど困難なことだからです。
み教えを聞こうともせず、お念仏を称えようという思いすら持とうともしないという性根を抱えて生きているのが私でありました。
少しでも、「仏になることを考えてみよう」、「仏道を真面目に歩いてみよう」という心を持ち合わせている私であるならば、救われる可能性があったのかも知れません。
しかし、そんな私ではありません。
気付いたら自己中心に他者を傷つけていく私を、煩悩抱えたまま、そのままお浄土に導くとは、さとりに向かっていく仏教の常識では考えられないことであります。
その願いを果たしとげるために、想像すらできないほどの時間をかけられ、願いのままに救済のはたらきを続けておられる阿弥陀如来であります。
その願いは決して他人事ではありません。
親鸞聖人は『歎異抄』という書物の中で、
という非常に有名な言葉を残されております。
親鸞聖人がそれほどまでによろこばれた阿弥陀如来のお救いが、今、当たり前のように私たちに伝わってきております。
私一人を救いとるための阿弥陀如来のお心に出遇わせていただいて、お互いに本当に良かったですね。
「阿弥陀如来がいてくれてよかった」
そのように、みなさまで想い合えたら素敵なことだと思います。