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聞こえさせると重ねてお誓いの仏様。聞くことと信心の関係性とは?

もくじ

聞こえさせるとお誓いになられた阿弥陀如来のお救い

重誓名声聞十方

重ねて誓うらくは名声十方に聞こえんと

四十八の願いを建てられた法蔵菩薩は、重ねて「わが名前、すなわち南無阿弥陀仏が十方世界の人々に称えられるように」とお誓いになられました。

五劫という途方もないほど長い間考えて、法蔵菩薩はすべてのいのちを救いとるために選ばれた四十八の願いを述べられました。

そしてその後、

仏、阿難に告げたまはく、「その時に、法蔵比丘、この願を説きをはりて、頌を説きていはく

さらに「重ねて誓う偈」を説かれます。

それが、浄土真宗の御門徒さまに親しまれております『重誓偈』というお経であります。

『重誓偈』という経典の心があらわされております

『重誓偈』は、浄土真宗の御門徒さまが普段使用されているお経本の中でも、おそらく最も短いお経であります。ですので、毎朝お勤めされている方も多いようです。

その『重誓偈』は、次のような言葉からはじまります。

我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚
我於無量劫 不為大施主 普済諸貧苦 誓不成正覚
我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ無量劫において、大施主となりて、あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。

ここで、三度「誓不成正覚」(成し遂げられないようならば、私はさとりを開かない)と誓われておりますので、浄土真宗では三誓偈とも呼ばれております。その三つの誓いとは、

1、未だかつてないほどの最高の仏になろう

2、いつまでも悩み苦しむものを救いとる仏となろう

3、どこまでも、南無阿弥陀仏の名号を届かせ、聞こえさせよう

最初の二つで「未だかつてないほどの最高の仏となり、いつまでも悩み苦しむものを救いとろう」とお誓いになられていることがわかります。

一見すると、この二つの誓いだけで私たちの救いは完成されているように見受けられます。しかし、阿弥陀如来は「どこまでも、南無阿弥陀仏の名号を届かせ、聞こえさせよう」という三つ目の誓いを付け加えられました。

この誓いが、「名号」によって救うという阿弥陀如来独自のお誓いであり、浄土真宗というみ教えのとても大切なところであります。

普通に考えますと、「名号を称えさせよう」と誓われるはずでありますが、「聞こえさせよう」と誓われております。

南無阿弥陀仏の心を聞いている信心ひとつで救われます

浄土真宗における救いとは、信心一つで成立します。

南無阿弥陀仏と称える行いが役に立って成立するものではありません。煩悩抱えた私に条件を付けずに、そのままお浄土に導こうという阿弥陀如来でありますから、称えるという条件すら付けておりません。

「何をすれば救われるのか」、「本当に阿弥陀如来はおられるのだろうか」と、私が色々とはからうことは、阿弥陀如来を疑っている証拠でもあります。

そのような疑いが無くなったすがたを信心と言います。

その信心について、親鸞聖人は、『一念多念文意』という書物に次のように示されております。

「またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」

「聞く」ことであります。

しかし・・・

ただ、「聞いて信を得る」というふうに、「聞こう」という意識を阿弥陀如来が私に求めているのではありません。「聞こえさせよう」という願いであります。

つまり、阿弥陀如来がご自身の功徳の全体でもって名号を完成されたということは、すでに聞くというかたちで私たちに受け取らせようというお心があり、その心こそが、「重誓名声聞十方」という言葉にあらわされております。

ゆえに信心とは、決して私の心から生じたものではありません。

そのことを親鸞聖人は、主著である『教行証文類』に信心というは、すなはち本願力回向の信心なりと言われました。

信心とは、阿弥陀如来の願いのままに、私が聞かせていただいている今のすがたのことであります。

そのような阿弥陀如来のお心を聞かせていただく生涯を、ともに歩ませていただければと思います。

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