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海で喩えられるほどの広大な功徳を賜ります。決して壊れません!

もくじ

阿弥陀如来の願いそのものである信心は決して壊れません

開入本願大智海
行者正受金剛心

本願の大智海に開入すれば、行者まさしく金剛心を受けしめ、

大いなる智慧の海のような阿弥陀如来のご本願によって、決して壊れることのない信心を賜るのであります。

信心のことを「金剛心」と表現されております。

何より固く変質することはありません。

決して壊れることもありません。

だって、阿弥陀如来からの賜りものですもん。

今回の句で讃えられておりますように、「海」でたとえられるほど広大な阿弥陀如来の功徳について味わわせていただきましょう。

親鸞聖人は海という表現を多く使用されております

限りないほど広大なものをたとえる時、親鸞聖人は「」の語を使用されます。

「正信念仏偈」での今までの用例を挙げてみましょう。

一、「弥陀本願海」
阿弥陀如来のご本願の功徳が広大なことを讃えられております

二、「群生海」
生きとし生きるいのちを海に喩えられております

三、「海一味」
誰もが等しく救われていくことを喩えられております

四、「功徳大宝海」
名号の功徳が満ちておられることを讃えられております

五、「本願大智海」
ご本願が何より勝れていることを讃えられております

親鸞聖人はこのように、功徳の広大なことや、凡夫の煩悩の深いことを「海」という言葉で喩えられました。

そのような海の用例について、主著である『教行証文類』ではさらに顕著にあらわれております。

「海」といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる。これを海のごときに喩ふるなり。

「海」というのは、はかり知れない過去からこれまで、凡夫や聖者の修めたさまざまな自力の川の水が転じられ、五逆・謗法・一闡提などの限りない煩悩の海水が転じられて、ご本願の慈悲と智慧との限りない功徳の海水となることであります。
これを海のようであるとたとえられます。

罪償も功徳も関係なく、はかり知れない大きさを示す時に用いられておられております。

金剛心とたとえられるほどのご信心を如来より賜る人生

「金剛心」について、善導大師の『散善義』では、次のように示されております。

この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。

この心のかたく信ずることは、金剛のようでありますので、すべての仏教と異なるみ教えの人や、浄土門以外の人や、浄土門の中でも考えの違う人たちによって、乱されたり、やぶりくだかれたりすることはありません。

決して壊れることのない何よりかたい心であり、阿弥陀如来より賜った信心のことであります。

阿弥陀如来は絶えず私たちにおはたらきでありますが、誰もが阿弥陀如来に出遇える訳ではありません。むしろ、阿弥陀如来を否定しようとする言葉を聞くこともあるのが今日の現状であります。

「生活が楽になる」、「病気が治る」といった目の前の苦しみを解決してくれる教えがあったならば、聞いてみようかという心が生じるのも不思議なことではないでしょう。

しかし、ここで金剛心と示されている他力の信心を賜ったならば、他の教えを聞いてみようかと迷うことはありません。私が作った自力の信心なら壊れることがあるかもしれませんが、浄土真宗の信心は、阿弥陀如来より賜る他力の信心であります。

決して壊れることはありません。

また、「金剛」には最高という意味もあります。

誰もが抱えている煩悩をはなれた何より清らかな阿弥陀如来のお誓いによって作られ、与えられた信心でありますから、最高・最勝であります。

おそらく、他の教えでいわれる信心と比較することすらできないでしょう。

そのような信心を賜ることを示されたのが、「開入本願大智海 行者正受金剛心」という今回の二句でありました。

何より勝れている阿弥陀如来のお誓いを聞かせていただく決して壊れることのない信心を賜ったよろこびの人生を、ともに歩ませていただきましょう。

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