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ただ阿弥陀如来にお任せする人生は「共に」という心を与えてくれる

もくじ

ただ阿弥陀如来をたよりとさせていただくという信仰告白

帰命無礙光如来

無礙光如来に帰命したてまつる。

天親菩薩は、「世尊よ、私は一心に無碍光如来に帰命して、安楽国に往生いたします」と、みずからの信仰を告白されました。

私が浄土真宗のことを何もわからずに「正信念仏偈」をお勤めしていた時、読み仮名をあまり見ずに間違えて読んでいた句があります。

それは、今回の句と、「正信念仏偈」の最初の句です。

「帰命無量寿如来」
「帰命無碍光如来」

読み間違えていた頃は「ややこしいな〜」と、正直思っておりました。

無量寿如来」、「無碍光如来」はともに阿弥陀如来のことでありますので、実はこの二句の意味合いもほとんど同じです。

ただ阿弥陀如来に帰依いたします」という信仰告白であります。

この句は、天親菩薩の主著である『浄土論』の冒頭のお言葉に依っております。

そこでは、次のように天親菩薩自身が信仰を告白されております。

世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国

この部分について、親鸞聖人は『尊号真像銘文』に次のように解釈されております。

「世尊我一心」といふは、「世尊」は釈迦如来なり。「我」と申すは世親菩薩のわが身とのたまへるなり。「一心」といふは、教主世尊の御ことのりをふたごころなく疑なしとなり、すなはちこれまことの信心なり。「帰命尽十方無礙光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無礙光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界をつくしてことごとくみちたまへるなり。「無礙」といふは、さはることなしとなり。さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。「光如来」と申すは阿弥陀仏なり。この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。「願生安楽国」といふは、世親菩薩、かの無礙光仏を称念し信じて安楽国に生れんと願ひたまへるなり。

 「世尊我一心」 というのは、「世尊」とはお釈迦さまであり、「我」というのは天親菩薩がご自身のことを仰っているのであります。「一心」というのは、お釈迦さまの仰せに対して二心なく疑いがないということであり、これはまことの信心であります。
「帰命尽十方無礙光如来」というのは、「帰命」とは「南無」であり、また「帰命」というのは阿弥陀如来の仰せにしたがうという意味であります。
「尽十方無礙光如来」というのは阿弥陀如来のことであり、光明そのものであります。「尽十方」というのは、「尽」とは「つくす」といい、「ことごとく」ということであります。光明はすべての世界に満ちわたっておられるのであります。「無礙」というのは、さまたげられることがないというのであります。さまたげられることがないというのは、衆生の煩悩や悪い行いにさまたげられることがないのであります。「光如来」というのは、阿弥陀如来のことであり、不可思議光仏ともいわれます。
この仏さまは智慧が光のすがたをとったものであり、その光がすべての世界に満ちておられることを知るがよいというのであります。
「願生安楽国」というのは、天親菩薩が「無礙光仏である阿弥陀如来の名号を称えて疑いなく信じ、安楽国に生まれよう
と願っていておるのであります。

前の句の天親菩薩の紹介でも触れましたが、大乗を非難しておられた立場から、阿弥陀如来への信仰を告白される立場に変わったことが、この句で明確に示されております。

自分だけではなく他の方々と一緒に救われてゆく

尊号真像銘文』の上の言葉に続いて親鸞聖人は、

「願生安楽国」といふは、世親菩薩、かの無礙光仏を称念し信じて安楽国に生れんと願ひたまへるなり。

と、「ただ阿弥陀如来のみ教えをともに信じ、ともにお浄土へ生まれさせていただきましょう」という、論のまとめに持ってきても不思議ではない言葉を最初に持ってきております。

この言葉から、自分だけの殻にこもらない大乗仏教の特長を感じます。

そして、このこと一つを伝えるために『浄土論』を著されたのだと思わされます。

私たちが『浄土論』をいただく時も、そのような天親菩薩のお心をくみ取るべきではないでしょうか。

それは『浄土論』に限ったことではなく、浄土真宗の聖教すべてにいえることでありますが、学問ではなく、「私の救い」として受け取り、自分だけではなく他の方とともに、「一緒にお浄土に参らせていただきましょう」と思えたら素敵だなぁと思います。

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