煩悩を抱えたままさとりを開かせていただく身であると知らされる
惑染凡夫信心発
証知生死即涅槃
惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。
どのような方でありましても、阿弥陀如来よりご信心を賜ったならば、迷いの世界にいるままが、仏のさとりを開く身であったことをさとらせていただくのであります。
(ただし、決してこの世界で仏のさとりを開くのではありません。真実を見極める仏さまの眼で見たならば、この世界での迷いも、さとりも同じことであったと知らされるのであります)
浄土真宗のみ教えを聞かせていただくと、様々な価値観が変わってゆきます。
苦しい時、辛い時は我慢するしかないと思っておりましたが、「どんな時も阿弥陀如来が私といてくれる」という真実が、生きる元気を与えてくれました。
「いのちを終えたら終わり」なこの世界だと思っておりましたが、「かならずたすける」という阿弥陀如来のお心により、阿弥陀如来に出遇うための、大切な意味のある人生だったと知らされました。
今回の句においても、この世への価値観を大きく変えていただけました。
悲しみつらい世界ではなく、煩悩を抱えたまま信心を賜る世界
今回の句は、天親菩薩の主著である『浄土論』の
という文を、曇鸞大師の『往生論註』に次のように釈されたのに依っております。
「淤泥華」といふは、『経』(維摩経)に、「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にすなはち蓮華を生ず」とのたまへり。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。
「淤泥花」というのは、『維摩経』に、「高原の陸地には蓮華は生じないが、湿った泥の中に蓮華が生ずる」と説かれております。
これは、この土の凡夫が煩悩の泥の中にあって、お浄土から出られた菩薩に導かれて、よく仏の正覚をひらく華、すなわち信心を生ずるのにたとえたのであります。
泥の中に生まれながらも清らかで美しい華を咲かせる蓮華のように、煩悩が具足している凡夫であろうと、ひとたび信心をおこせば、仏のさとりを開くことができます。
「正信念仏偈」の言葉ですと、「惑染の凡夫」であってもお浄土でさとりを得ることが説かれているのでありますが、決して曇鸞大師は、高みに立って説かれているのではありません。
曇鸞大師の著された『讃阿弥陀仏偈』では、
わたしは無始よりこのかた三界をめぐり迷いの境界にさまようてきた。しばらくの時に造る業も足を六道に繋ぎ三塗は滞まらせる。
ここで、「われ」と迷いに沈んできた自身のことを嘆かれております。
また、道綽禅師の『安楽集』には、
われすでに凡夫にして、智慧浅短なり。いまだ地位に入らざれば、念力すべからく均しくすべけんや。
わたしは現に凡夫であって、智慧が浅く、また菩薩の高い位に入っておりませんので、十方をどれでもひとしく念ずることができません。
という曇鸞大師のお言葉が残されており、自分自身を煩悩具足の凡夫として位置付けられていたことがわかります。
『往生論註』には、阿弥陀如来のお救いが説かれた「浄土三部経」の一つである『仏説観無量寿経』について、
一切の外道・凡夫人、みな往生を得ん。また『観無量寿経』のごときは九品の往生あり。「下下品の生とは、
(中略)
かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿仏〉と称せん。仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除き、命終の後に金蓮華のなほ日輪のごとくしてその人の前に住するを見、一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生を得ん。
(中略)
この経をもつて証するに、あきらかに知りぬ、下品の凡夫ただ正法を誹謗せざれば、仏を信ずる因縁をもつてみな往生を得と。
一切の凡夫はみな往生できます。
『観無量寿経』には九品の往生があります。すなわち「下品下生というのは、
(中略)
このようにして、心から念仏してたえず、十念の念仏をするならば、その仏名を称えたことによって、一念一念の中に八十億劫という長い迷いの罪が除かれ、命の終った時には、日輪のような金蓮華が、その人の前に現われるのを見ます。そして、しばらくの間に極楽世界に往生することができます。
(中略)
この経を証拠として明らかに知られます。下下品の凡夫は正法を謗らずに、仏を信ずることによって、みな往生できます。
と、何の修行もできないような下品の凡夫であっても信心一つで救われていくことを示されるのでありますが、それほどの他力のおはたらきを自分事として受け取り、今を生きる私たちにお説きくださっているのが曇鸞大師であることを忘れてはなりません。
「そのまま救う」の仏様だからこそ、さとりに導かれます
また、「正信念仏偈」において、続けて「証知生死即涅槃」と示されております。
信心が定まると「生死即涅槃」と「証知」するということでありますが、この句は『往生論註』の、
「無礙」とは、いはく、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。
無礙とは、 迷いとさとりが本来不二であるとさとることであります。
という言葉に拠っております。
「証知」とはさとるという意味で、宗祖はお浄土での利益をいうときに使用されます。としますと、「生死即涅槃」とは、この世での利益ではなく、お浄土で仏になって得る利益であることになります。
親鸞聖人は『入出二門偈』に次のように示されております。
さとりを開いた仏智から見たならば、迷える衆生の世界そのものが、清浄なさとりの境地なのであります。
どうしてもそう思えない私は、さとりから遠ざかろうともがいている私なのかも知れません。
しかし、阿弥陀如来が見捨てずはたらき続けておられる世界は、今、私たちがいのちを授かっているこの世であります。
この世で迷っているまま、さとりに導かれつつある。それほどのみ教えを聞かせていただいている現実を、「生死即涅槃」という言葉より知らされるところであります。