苦しい道ではなく楽しい旅こそさとりへの近道であります
顕示難行陸路苦
信楽易行水道楽
難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
自らのはからいで修行して仏のさとりを開く自力の道は、山や川を渡って目的地に到達する陸路経由の難しく苦しい道であることにたとえられました。
そして、阿弥陀如来のおはたらきによって仏のさとりを開く他力の道は、船に乗って海路で目的地にゆくような易しく楽しい旅にたとえられました。
そのように、仏のさとりを開く道には、自力の難行道と他力の易行道の二つがあることを、龍樹菩薩は示されました。
「苦しい道」と「楽しい旅」
みなさまはどちらがいいでしょうか?
「苦労した方がよろこびも多いから苦しい道がいい!!」
そう思われる方もおられるかも知れません。
でも、私は「楽しい旅」がいいです。笑
それどころか、「苦しい道を励むことのできない私だった」と仏さまのみ教えを聞かせていただく中で知らされました。
難行道の厳しさとの比較で易行道の素晴らしさを説かれました
龍樹菩薩の著述である『十住毘婆沙論』「易行品」という書物において、難行道と易行道の二つがある「難易二道」を示されております。
その「易行品」の最初は、
阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。あるいは声聞・辟支仏地に堕す。もししからばこれ大衰患なり。
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。
不退の位に至るためには、多くの難行を、長い時間かけて行じることによって、ようやく得ることができるのでありますが、声聞や縁覚の地位に堕ちることもあります。もしそうなれば、大きな損失であり災患であります。
(中略)
もし諸仏がたの説きたもう中に、易行道ですみやかに不退の地位に至ることのできる方法があるならば、どうか、 わたしのためにこれを説いていただけませんか。
という、さとりを目指す者の質問からはじまります。
仏教の目的は仏のさとりを得ることでありますが、当然のことながら、そのためには煩悩を滅するための大変な修行が必要でありますので、「易しい行での救いを求めましょう」という、この質問に対する答えは厳しいものでありました。
答へていはく、なんぢが所説のごときは、ニョウ弱怯劣にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもつてのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。
(中略)
大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。なんぢ、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。
次のように答えられました。
そなたのいうようなことは、根機の劣った弱い者のいうことでありません。まして雄々しく堅固な志を持つ者の言葉ではありません。
なぜならば、もし人が願いを起こして仏果を求めようと欲して、まだ不退の位を得ないならば、その間はいのちを惜しまず昼夜精進して、頭に付いた火を払い消すようにしなければなりません。
(中略)
大乗を行ずる者には、仏は、「願いを起こして仏果を求めることは三千大千世界をもち挙げるよりも重い」と説かれてあります。そなたが不退の位を得る法はとても難しく、長い時をかけてようやく得ることができるのであります。
もしすみやかに不退の位に至ることのできる易行の道があろうかというならば、これはすなわち根機の劣った弱い者の言葉で、すぐれた人、堅固な志を持つ者のいうことではありません。
当然のように叱られました。
しかし、この言葉に続いて、
なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。
しかしながら、そなたが、どうしてもこの方法を聞きたいと思うならば、今まさにこれを説きましょう。
といい、難易二道を説かれます。
ここまでの「易行品」の流れからわかるように、龍樹は最初から易行を勧めておられたのではありません。
修行をする能力や根性の劣った方のために説かれたのが「難易二道」であります。
そこでは、次のように述べられております。
仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。
仏法にははかり知れないほど多くの門戸があります。たとえば世間の道路に難しい道と易しい道とがあって、陸路を歩いて行くのは苦しいのですが、水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものであります。
菩薩の道もまた、そのようであります。あるいはいろいろな行を積んで行くものもありますし、信方便の易行によって速やかに不退転の位に至るものもあります。
私は、ただ易行道を説いたらいいのにも関わらず、わざわざ難行道という言葉を使用されておられることに不自然さを感じておりました。
しかし、比較されないと素晴らしさになかなか気付くことができません。龍樹は、そのような人の心を活かし、難行道の難しく苦しいことを比較することによって、易行道のすぐれているところを知らせようとされていたように思われます。
また、龍樹が『十住毘婆沙論』を造った本来の理由は、能力が劣っており、根性もない方を十地という、決して堕ちることのない位へと導くためでありました。
そのような方に難行道を勧めても、決して歓喜地の位に到ることはできません。ですので、龍樹が『十住毘婆沙論』で明らかにしようとされたのは、誰もが進むことのできる易行の道に他ならないでしょう。
称名念仏という易行によって誰もが救われてゆきます
易行とは、称名のことであります。
『十住毘婆沙論』では、
かくのごときもろもろの世尊、いま現に十方にまします。もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、恭敬心をもつて、執持して名号を称すべしと。
ここで「名号を称すべし」と称名を示されていることからも明らかでありますが、ここでは阿弥陀如来に限られたものではありません。
しかし、『十住毘婆沙論』では、明らかに諸仏のなかで阿弥陀如来だけが特別な説かれ方をされております。ゆえに、この称名も阿弥陀如来の名を称することを示されているのでありましょう。
つまり、私たちが称えさせていただいている「南無阿弥陀仏」のお念仏一つが、龍樹が示され、親鸞聖人が讃えられた易行道のみ教えであります。
そのような、お念仏一つで救われていく大乗のみ教えをともにいただける境涯を恵まれて本当によかったですよね。
浄土真宗は、様々な方とともに喜ばせていただけるみ教えであると、つくづく思い知らされるところであります。