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阿弥陀如来のおはたらきによってお浄土に生まれ仏となって大活躍!

もくじ

お浄土に生まれて仏に成って大活躍させていただけます

必至無量光明土
諸有衆生皆普化

かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。

「阿弥陀如来のお浄土に至ったならば、あらゆるいのちを救うことができます」そのように、曇鸞大師は示されました。

僕は、浄土真宗の勉強をはじめた時に不思議だったことがありました。

それは、お浄土に生まれてからの話のことです。

「お浄土に生まれたら、こんなことや、あんなことができるんじゃ!!とっても楽しいんじゃ!!」

そのようなことを言う方っていないですよね。だから疑問でした…。

お浄土での楽しみを考える時点で、僕って規模の小さな人間ですね。

お浄土で楽しむのではなく、あらゆる方々を自由に救わせていただけることを何よりの楽しみにさせていただける。

いのちを終えても大活躍させてくれるのが浄土真宗というみ教えでありました。

阿弥陀如来のおはたらきにより仏に成って導かせていただけます

今回の二句では「お浄土に至ったならば、あらゆるいのちを救うことができる」と示されております。

ゆえに、「この世界に還る()というはたらき()が阿弥陀如来によって成されている(回向)」という、還相回向について示されたものであります。

曇鸞大師の書かれた『往生論註』では、次のように示されております。

大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して遊戯し、神通もつて教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑなり。

大いなる慈悲の心を起こして、悩み苦しむあらゆるいのちを観察して、様々なすがたを示し、生死の迷いである煩悩の世界に還りきて、神通力によって自在にすべての者を救うものとなります。
それもすべて阿弥陀如来のおはたらきによって成し遂げられることであります。

無量光明土」とは、無量の光明が輝きわたる国土でありますから、阿弥陀如来のお浄土のことであります。

そのお浄土に至った時、あらゆるいのちを、すべて救うことができるので、「諸有衆生皆普化」と讃えられております。

この二句について蓮如上人は次のように示されております。

「必至無量光明土 諸有衆生皆普化」といふは、聖人(親鸞)、弥陀の真土を定めたまふとき、「仏はこれ不可思議光、土はまた無量光明土なり」(真仏土巻・意)といへり。かの土にいたりなばまた穢土にたちかへり、あらゆる有情を化すべしとなり。

「無量光明土」について、親鸞聖人のお言葉より示され、往生成仏した後、この世に還ってあらゆるいのちを救済するという還相回向のはたらきを示されております。

その親鸞聖人のお言葉とは、主著である『教行証文類』に示された次のお言葉であります。

つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち、大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。

つつしんで、真実の仏と浄土をうかがってみますと、仏は思いはかることのできない光明の如来であり、浄土はまた限りない光明の世界であります。
すなわち、それは法蔵菩薩のおこされた大いなるお慈悲の誓願の果報として成就されたものでありますので、真実の報仏・報土というのであります。
その誓願とは、すなわち光明無量の願(第十二願)と寿命無量の願(第十三願)であります。

「第十二願」では、届かないところのない光明を放つ阿弥陀如来であることを説かれており、「第十三願」では、尽きることのない寿命をもつ阿弥陀如来であることを説かれております。

そのようなはたらきを兼ね備えた場所が阿弥陀如来のお浄土であると示されており、その世界に生まれたならば還相のはたらきをさせていただけると「正信念仏偈」に示されております。

私たちの人生の明確な目的地であるお浄土という世界

ところで、お浄土とは、明確な場所のことなのでしょうか。

私は、お浄土とは、今を生きる私が目指すべき明確な場所としてのはたらきだと捉えております。

お浄土は存在しますが、常識にとらわれている私には理解することはできません。

どこまでも光り輝き、いつまでも続く寿命があるものは、この世にはありませんので、想像することすらできません。

しかし、気付いたら、人生の目的地はお浄土であると見定めさせていただいております。

そして、お浄土に生まれ成仏させていただいたならば、阿弥陀如来のおはたらきによって無限の救済活動をさせていただけるのであると、気付いたら思わせていただいております。

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