曇鸞大師を承けて他力の信心を示された道綽禅師
三不三信誨慇懃
三不三信の誨慇懃にして、
道綽禅師は、曇鸞大師の示された「三不信」の教示を承けて、「三信」を懇切に示されました。
ここで、道綽禅師は曇鸞大師の釈を承けておられたという、七高僧それぞれに関係があることが示されております。
「三不三信」とは、「三不信」と「三信」のことであります。
この二つは、言葉だけを捉えても、関係が深いように感じられます。
「三信」は「三不信」の反対語と考えられるのですが、「三不信」とは、曇鸞大師の『往生論註』に説かれている自力の信心がなぜ劣るのかを明確に示されたものであります。
私の心で作り上げる信心を「三不信」と示されました
『往生論註』には次のように「三信」「三不信」について示されております。
名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。
口に名号を称え、心に念じながら、無明がなおあって、その願いの満たされないものがあります。
と、心に思いつつ念仏を称えていても、煩悩により往生の願いが満たされないことを示されます。
続けて、その理由について、
なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。
どういうわけかといえば、それは無礙光のいわれにかなうように修行せず、名号のいわれに相応しないからであります。
と、名号南無阿弥陀仏のはたらきに相応していないからであると示されております。
それは、南無阿弥陀仏一つですくうという阿弥陀如来のお誓いを疑っている状態であり、自分の力を当てにしようという心が混じっている状態であるということができます。
また続けて、
いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすとならば、いはく、如来はこれ実相身なり、これ為物身なりと知らざればなり。
どういうのが無礙光のいわれにかなうように修行せず、名号のいわれに相応しないことなのでしょうか。
それは、如来が実相真如をさとられた自利成就の仏さまであり、私たちを救う利他成就の仏さまであることを知らないのであります。
と、実相身であり為物身であることを知らないからであるといわれます。
阿弥陀如来とは、実のごとくさとられた相の仏さま(実相身)であり、そのままが物(私たち)を救う為の仏さま(為物身)であります。
つまり、阿弥陀というさとりを開かれたままが、私たちを救う為のはたらきであります。
そして、続けて「三不信」を説かれます。
また三種の不相応あり。一には信心淳からず、存ずるがごとく亡ずるがごときゆゑなり。二には信心一ならず、決定なきがゆゑなり。三には信心相続せず、余念間つるがゆゑなり。
また三種の不相応があります。
一つには信心が淳くない。ときにはあり、ときにはなくなるからであります。二つには信心が一つでない。信が決定しないからであります。三つには信心が相続しない。自力の心がまじわるからであります。
つまり、
「信心不純」
有るのか無いのかわからないあいまいな信心
「信心不一」
阿弥陀如来のみに任せきっていない
「信心不相続」
阿弥陀如来以外のものをたのむ一貫しない信心
のことであり、続けてこの「三不信」それぞれの関係性について、次のように示されます。
この三句展転してあひ成ず。信心淳からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず。決定の信を得ざるがゆゑに心淳からざるべし。
この三句は、互いにくみあってその意義を成立させるのであります。
信心が淳くないから決定の心がない。決定の心がないから信心が相続しない。また信心が相続しないから決定の信が得られ無い。決定の信が得られないから、 信心が淳くないともいえます。
これが「三不信」であり、自力の信心のことを指しております。
「三信」であるから必ず救われていくことを示されました
道綽禅師は、『安楽集』に曇鸞大師の『往生論註』に説かれる「三不信」を引用した後に、
もしよく相続すればすなはちこれ一心なり。ただよく一心なれば、すなはちこれ淳心なり。この三心を具してもし生ぜずといはば、この処あることなからん。
もし相続心があるならば、それは一心であり、一心であるならば、それは淳心であります。
この淳心・一心・相続心の三心をそなえて、もし往生しないというならば、そういう道理のあるはずがありません。
と、淳心・一心・相続心があれば必ずお浄土に往生することができるという「三信」を述べられました。
曇鸞大師の示された「三不信」の教示を承けて、道綽禅師は「三信」を懇切に述べられたのであり、そのことを親鸞聖人は「三不三信誨慇懃」という句で讃えられたのだと味わうところであります。