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大乗無上の法だからこそ、みんなで一緒によろこび救われてゆきます

もくじ

お釈迦さまによって予言されていた大乗の救い

宣説大乗無上法
証歓喜地生安楽

大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜんと。

お釈迦さまは次のように予言されました。
「龍樹菩薩は尊いこの上なくすぐれている大乗のみ教えを説き示し、さとりを開くことが定まりよろこびの気持ちが湧いてくる歓喜地の位に至って、阿弥陀如来のお浄土に往生するだろう」

龍樹菩薩が説く教えの内容まで、お釈迦さまによって予言されております。

まるで、この世界に阿弥陀如来のお救いを弘めるには肉体の限界があるから、龍樹菩薩に代わりを引き継いでもらったようであります。

僕が、阿弥陀如来のみ教えに出遇わせていただいているのも、お釈迦さまはご存知だったのかな?

龍樹菩薩が広めた大乗無上の法こそがすべての命にとっての救いです

大乗」とは、大きな乗り物という意味で、小さな乗り物である小乗に対する言葉のことであります。

仏教のみ教えは、さとりという目標に向かわせる乗り物でありますので「」といいます。

その中でも、自分自身がさとりを求めるとともに、あらゆる一切の方々もともに救われようという、自分も他人もともにさとりを開くみ教えを大乗といいます。

そして、大乗のみ教えの中でも、特にすぐれている阿弥陀如来によるお救いを、ここでは「大乗無上の法」といわれているのであります。

私は、「大乗無上の法」という言葉に、浄土真宗というみ教えの救いの絶対性を感じずにおれません。

生きているうちに、知らず知らずのうちに区別差別をしていきます。

私と相手は別々の存在でありますから仕方がないことではありますが、区別差別の理由を悲しく感じます。

自分を中心に、優れている。劣っている。善い人。悪い人。そのような優劣や善悪をつけて傷つけ合って生きていきます。

相手が認められたのに私が認めてもらえない時など、自分中心に相手へ怨みの思いを抱きます。

そんな時に、自分の心はいかに大乗とは遠く離れているか考えさせられます。

どのような方であっても決して区別差別せず、すべてを受け止める大乗の中でも、特にすぐれた大乗無上の法でなければ、誰よりも僕が救われませんでした。

それほどのみ教えを、ともにいただけるのも、龍樹の功績によります。

「自分だけ」ではなく、「みんなで一緒」という心を与えてくれます

浄土真宗本願寺派では、葬場勤行の時に次のような龍樹のお言葉をお勤めされます。

我説彼尊功徳事
衆善無辺如海水
所獲善根清浄者
回施衆生生彼国

これは龍樹によって阿弥陀如来の威徳を讃えられた『十二礼』の最後のお言葉でございます。

子ども会などでお勤めされる「らいはいのうた」の同じ部分は次になります。

われみほとけのいさおしを
たたえまつりて身に得たる
はかりなき徳もろびとに
わかちて往かんかのみ国

ともに阿弥陀如来の国に生まれましょう」と、龍樹菩薩が時代を超えて私たちに呼びかけてくださっておりますね。

大乗無上の法を受ける私たちは、救いの区別を考えるのではなく、みんなで一緒にであわせていただくべきことを、この言葉より知らせていただけます。

証歓喜地生安楽」の「歓喜地」とは、さとりを目指して修行される菩薩の決して落ちることのない位のことであります。

つまり、この歓喜地の位に至ったならば、さとりを開くことは決定しますので、仏教の目標である成仏をかならずすることになります。

だから、歓喜の気持ちが生ずるので歓喜地といい、「不退転地」とも「不退の位」ともいいます。

親鸞聖人は主著である『教行証文類』に、次のように示されました。

真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。

阿弥陀如来より信心を賜ったならば、どのようなよろこびにもたとえることができないほど、身にも心にもよろこびの気持ちが湧いてきます。

よくよく考えてみますと、この世での一喜一憂は時間が経てばかならず失うものであります。

人は感情に揺さぶられながら生きておりますので、どんなによろこばしいことが続いても、一つ大きな悲しみがあれば、悲しみの感情に変わってしまいます。

それでは、本当によろこびということはできないでしょう。

しかし、阿弥陀如来のご本願に出遇わせていただいたよろこびは決してなくなることはありません。

様々な経験を積み重ね、考え方も変化していくのが人生でありますが、南無阿弥陀仏のみ教えだけはまったく変わらずに私を包み込んでくださっております。

そのようなよろこびを歓喜地といわれたのであり、龍樹菩薩は「その境涯に一緒に立とうよ」と私たちを励ましてくださっておられるのだと、私は味わうところであります。

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