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天親菩薩は阿弥陀如来より賜る信心を疑いのない「一心」示されました

もくじ

天親菩薩があきらかにされた阿弥陀如来より賜る信心一つの救い

広由本願力回向
為度群生彰一心

広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰す。

阿弥陀如来のお誓いは、ただ一方的にあらゆるいのちをすくい取ろうというものであります。そして、私たちは信心ひとつ、すなはち一心で救われていくということを、天親菩薩はあきらかにされました。

浄土真宗のみ教えは「信心正因」と表現されますように、私たちの救いは信心ひとつで決定します。
『仏説無量寿経』に説かれたお救いの因が信心ひとつであることを明らかに示すためには、天親菩薩の「一心」の語が不可欠でありました。
七高僧のすべての方に、それぞれの方があきらかにされたみ教えの特色である「発揮」というものがあります。

天親菩薩の発揮は「宣布一心」とよばれており、そのことを讃えられたのが今回の二句であります。

一心とは信心。信心一つで救われてゆく信心正因であります

親鸞聖人は、『尊号真像銘文』という書物に、次のように解釈されております。

「一心」といふは、教主世尊の御ことのりをふたごころなく疑なしとなり、すなはちこれまことの信心なり。

ここから明らかなように、天親菩薩があきらかにされた一心とは信心のことであります。

浄土真宗のみ教えは信心正因であります。

阿弥陀如来のお救いを疑いなく聞かせていただく信心ひとつで私たちの救いは完結します。

その信心を、天親菩薩は「一心」と示されたのであります。

本願に説かれた三心は救いに疑いのない一心であります

親鸞聖人は主著である『教行証文類』に「三心一心」という段を設けて解釈されておりますので、この天親菩薩のお示しをとても大切にされていたことがわかります。

その『教行証文類』の部分は、

問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに論主(天親)「一心」といふや。

と、阿弥陀如来のお誓いである本願に「三心」が誓われているにも関わらず、天親は「一心」と示されているのはなぜだろうという疑問からはじまります。

その疑問に対して、

答ふ。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主、三を合して一とせるか。

と、阿弥陀如来は私たちにも理解できるように三心を誓われたのでありますが、信心一つが往生の正因となりますので、天親は三心を合わせて一心と示されたのだと答えられます。

その後、親鸞聖人は次のように示されました。

「至心」は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。「信楽」は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。「欲生」は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主(天親)、建めに「一心」といへるなりと

「至心」とは、さとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるので、疑いのまじることはありません。
「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀如来を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決定してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるので、疑いがまじることはありません。
「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)であります。これらはすべて如来より回向された心であるので、疑いがまじることはありません。

いま、この三心のそれぞれの字の意味によって考えてみますと、すべてまことの心であり、いつわりの心がまじることはありません。正しい心であって、よこしまな心がまじることはないのでありません。まことに知ることができたことに、疑いのまじることがないから、この心を信楽というのであります。
この信楽とは一心であり、一心とは真実の信心であります。だから、天親菩薩は『浄土論』のはじめに「一心」といわれたのであります。

阿弥陀如来によって誓われた本願にある「至心・信楽・欲生」の三心はいずれも、疑いのまじわらない心(疑蓋無雑)であり、いつわりやよこしまの全くない心であります。

信心とは、本願の誓いの通りに阿弥陀如来より賜る信楽のことであります。

その信楽一心に信心の内実はすべて込められておりますので、天親菩薩は三心それぞれを説明するのではなく「一心」の語で示されたのでありました。

阿弥陀如来より賜るから一心は失われることはありません

広由本願力回向」という句では、私たちが救われていく要因である信心は、煩悩を抱える私の心で作り出したものではありません。

阿弥陀如来から与えられるものであることを示されております。

そして、「為度群生彰一心」という句では、天親菩薩が一心と示されたのは、ただ単に自分一人が救われようという想いではなく、あらゆる方々とともにお浄土へ往生させていただこうという想いを窺うことができます。

ゆえに、今回の二句により、信心ひとつで救われていく道を天親菩薩があきらかにされた功績を讃えつつ、その信心さえ阿弥陀如来より賜ったものであるという一方的な救いを讃えられておられるのであります。

私たちの心で作り出した信心は、かならず無くなっていくものであります。

しかし、天親菩薩が一心と表現された信心だけは、阿弥陀如来より賜ったものでありますので決して無くなることがありません。

阿弥陀如来に信心を賜り、抱かれている安心の中で、前向きな日々を送らせていただければと思うところであります。

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