親鸞聖人の選定された七高僧には発揮があります
専雑執心判浅深
報化二土正弁立
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。
源信和尚は、さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅いので化土にしか往生できませんが、念仏ひとつをもっぱら修める他力の信心は深いので報土に往生できることをあきらかにされました。
七高僧の方々には、それぞれ特色のある釈である発揮というものがあります。
確認のために、今まで讃えられてきた高僧方の発揮を確認してみましょう。
龍樹菩薩 難易二道
難行道ではなく易行道をお勧めになられました。
天親菩薩 宣布一心
他力の信心の内容は、一心におさまることをあきらかにされました。
曇鸞大師 顕示他力
阿弥陀如来のおはたらきである「他力」という語を示されました。
道綽禅師 二門廃立
聖道門ではなく浄土門をお勧めになられました。
善導大師 古今楷定
『仏説観無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の真意をあきらかにされました。
源信和尚 報化弁立
阿弥陀如来のお浄土には、報土と化土があることをあきらかにされました。
法然聖人 選択本願
阿弥陀如来のお誓いの中でも、第十八願こそがご本意であることをあきらかにされました。
源信和尚の発揮は、阿弥陀如来のお浄土には、報土と化土があることを明らかに示されたので、「報化弁立」と呼ばれております。
そして、今回の二句ではその功績を讃えられております。
修行によって信心の深さと浅さが違っております
「専雑」とは、「専修」と「雑修」のことであります。
「専修」とは、阿弥陀如来のご本願に誓われている称名を修することであり、「雑修」とは、自力の称名や、様々な修行によって往生を願うことであります。
「執心判浅深」とは、信心に浅い深いがあることを判じてということであります。
後に出てまいりますが、源信和尚は称名念仏による往生を勧められているので、「専雑執心判浅深」とは、自力の修行は信心が浅いが、阿弥陀如来のご本願にかなった称名念仏は信心が深いということであります。
これに対して、源信和尚は「専修」といい、蓮如上人は『御文章』に「一心一向に」とある称名念仏の信心が深い理由として、称名念仏は阿弥陀如来が私たちのために選択された行であり、阿弥陀如来より賜る他力の信心であるからであると示されております。
阿弥陀如来より賜る浄土真宗の信心は他の一切の善根と訣別した信心であります。
私たちは情に振り回されて生きておりますから、努力で築き上げた信心は無くなりやすく、浅いものであります。
人間の感情自体が移ろいやすいものでありますので、決して深い信心にはなりません。
報土と化土をさらに明確にされた源信和尚の浄土観
そのような信心の浅深を判じて、「報化二土正弁立」と、源信和尚の功績を讃えられております。
阿弥陀如来のお浄土について、道綽禅師は『安楽集』に次のように示されております。
問ひていはく、いま現在の阿弥陀仏はこれいづれの身ぞ、極楽の国はこれいづれの土ぞ。答へていはく、現在の弥陀はこれ報仏、極楽宝荘厳国はこれ報土なり
問うていいます。今現におられます阿弥陀如来は、法身・報身・応身の三身の中のどの身でありましょうか。また極楽国は三土の中ではいずれの土でありましょうか。
答えていいます。阿弥陀如来は報仏であり、極楽国は報土であります。
また、善導大師は『観経疏』「玄義分」に、次のように示されております。
問ひていはく、弥陀の浄国ははたこれ報なりやこれ化なりや。答へていはく、これ報にして化にあらず
問うていいます。阿弥陀如来のお浄土は、報土でしょうか。化土でしょうか。
答えていいます。これは報土であって化土ではありません。
道綽、善導の両師ともに阿弥陀如来のお浄土は化土ではなく報土であることを示されていることがわかります。
これに対して源信和尚は、『往生要集』の中で、「阿弥陀如来のお浄土に生まれたいにも関わらず、懈慢界という世界に執着してしまい、阿弥陀如来のお浄土に生ずることが困難である」という疑問に対して、次のように答えられております。
雑修のものは執心不牢の人となすなり。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらにしてこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。
{乃至}
また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生るるもの少なからず。
雑修の者は信心が堅固でないから、 懈慢国に生まれるのであるということが知られる。 もし雑行を修めないで、 専ら念仏を行じたならば、 これは信心が堅固であって、 まちがいなく極楽浄土に生まれるであろう。
(中略)
また報の浄土に生まれる者はきわめて少なく、 化の浄土に生まれる者は少なくありません。
懈慢界は化の浄土であり、極楽国は報の浄土であると示され、さらにその二土に生まれる因は専修と雑修の違いにあることを示されております。
ここで「報の浄土」「化の浄土」と、「報」も「化」もともに阿弥陀如来のお浄土として捉えられているところに、源信の浄土観の特色があります。
つまり、道綽、善導の両師は、法・報・化という三身三土の分類の中で、阿弥陀如来は報仏報土にあたることを論じられたのですが、源信和尚はその報土をさらに「報の浄土」と「化の浄土」に分けられたのであります。
源信和尚によって明確化された浄土観に関する親鸞聖人のお示し
親鸞聖人は、源信和尚の解釈を『教行証文類』「真仏土文類」に、
それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
さて、報ということを考えてみますと、如来が因位においておこされた願の果報としてお浄土は成就されたのであるので報というのであります。
ところで、如来の願には真実と方便とがあります。だから、成就された仏とお浄土にも真実と方便とがあります。
と、阿弥陀如来のお誓いに真実と方便があるように、そのお誓いによって完成された仏土にも真実と方便があると示されます。
さらに、
すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。
すでに述べてきましたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものでありますので、報仏であり報土であると知ることができます。
方便の浄土に往生する因は人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのであります。これを方便の化身・方便の化土といいます。
と、真実報土も方便化土も阿弥陀如来の願いの果報として完成されたものであるので、ともに報土であると示されております。
つまり親鸞聖人は、阿弥陀如来の仏身仏土を、法・報・化の三身三土の中の報仏報土であると判じた上で、その報仏報土の中に真仏真土と化身化土を分別されているのであります。
ゆえに、親鸞聖人においては化土といっても報土中の化土をいうのであり、その分別は源信和尚の釈功であると見られ、「報化二土正弁立」と讃えられたのであります。
仏さまの世界もいろんな種類があります
一般的に、仏の世界は法土・報土・化土の三種類に分類されます。
- 「法土」とは、法性真如の世界で、色もなく形もなくて私どもの認識で把握できない境地であります。
- 「報土」とは、誓願と修行に報いて成立した世界で、阿弥陀如来のお浄土はこれにあたります。
- 「化土」とは、教化しようとする方々に応じて仏が出現された世界であります。お釈迦さまはこの世界に応化された仏さまですから、この世界は応化の世界であります。
報土に化土があることをあきらかにされた源信和尚のお気持ち
源信和尚があえて化土といわれるのは、報土の中に化土という領域をもうけて、雑修の罪科によって直、報土に往生できないもののために、その罪科をつぐなう場があることをあきらかにされたのであります。
つまり、源信は化土をすすめられたのではありません。
称名ひとつのすくいである専修をすすめるために、化土を示して往くべきところではないことを教えられたのであります。
報土と化土という往生の境地のちがいを示して、雑修という自力心で行う行をすてて、どうか専修の念仏を修して、まちがいなく真実報土に往生してくれよという、源信和尚の切なる願いに他なりません。
その称名念仏の本質は阿弥陀如来の救いの力・はたらきであります。
源信和尚は決して自力の念仏を勧めておられるのではありません。
親鸞聖人は、源信和尚の著された『往生要集』「念仏証拠」の、
『双巻経』(大経・下)の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな「一向にもつぱら無量寿仏を念じたてまつれ」とのたまへり。
『仏説無量寿経』の三輩の業については、それぞれ浅深があるけれども、 いずれにも通じて、「一向にもっぱら無量寿仏を念ぜよ。」と説かれております。
という文を『教行証文類』に引用し、第十八願による他力念仏の往生を示されているのですが、それは『往生要集』を第十八願による他力の念仏往生を説いた書物と見られているからに他ならないでしょう。
すなわち「報の浄土」へ往生する因としての専修とは第十八願の他力念仏であり、「化の浄土」へ往生する因としての雑修とは第十九願の自力諸行・第二十願の自力念仏と見ておられることが明らかであります。
源信和尚がお勧めになり、親鸞聖人があきらかにされた阿弥陀如来より賜った称名念仏の日暮しをともに送らせていただきましょう。