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どのような時代になっても無くなることのない阿弥陀如来の救いを賜る

もくじ

どんな時代であっても無くならない阿弥陀如来のお救い

像末法滅同悲引

像末・法滅同じく悲引す。

正法・像法・末法、さらには法滅という教えそのものが滅してしまうような時代であっても、阿弥陀如来のお救いである浄土門だけは、あらゆる方々をすくい続けるのであります。

誰ひとりとして、自分の修行やはからいではさとりをひらけない時代が、です。

それだけではなく、教えそのものが無くなる時代がやってきます。

それでも、阿弥陀如来のお救いには関係ありません。

それほどのみ教えじゃなければ、私が救われることはなかったことを知らせていただく今回の句であります。

正法、像法、末法、それだけではなく法滅になっても変わらない阿弥陀如来のお救い

この句では、正法・像法・末法・法滅といった区別をせずに、「いつの時代でも」と考えるべきだと思われます。といいますのも、この句はもともと『仏説無量寿経』で説かれております。

そこでは、

当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特に此の経を留めて止住すること百歳せん。それ衆生ありて、この経に値ふものは、意の所願に随ひてみな得度すべし

やがて将来、わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈しみの心をもって哀れみ、とくにこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。
そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう。

というお釈迦様の説法に拠ったものであります。

今回の句で出てまいります正法・像法・末法の三つの時代をまとめて三時思想といいます。

その三時思想である正法・像法・末法それぞれにおける仏教のあり方は種々に説かれております。

その内容は次のようになります。

正法 ー 教・行・証
像法 ー 教・行
末法 ー 教

道綽禅師が仏道を勧められる際の基本姿勢とは、自らの歩む仏道を選ぶにあたって、時代と根機を踏まえるべきであるというものでありました。

教えが時代と根機に適合していれば、その仏道を歩み成果を得ることが可能ですが、時代と根機に適合していなければその仏道を歩むことは困難であります。

道綽禅師が聖道門と浄土門を比較されるにあたり、聖道門の困難さを示されるのは、時代と根機の考察によるものであり、すでに末法の時代であるという道綽の実感に基づくものであります。

そのような時代にあっても、どれほど根機が劣っていても救われていく道は浄土門しかありません。

どんな時代になっても変わらない阿弥陀如来のお救い

道綽禅師の功績を、親鸞聖人は『教行証文類』に、次のように感慨を持って述べられております。

まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法、像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

いま、まことに知ることができました。
聖道門のさまざまなみ教えは、お釈迦さまの在世時代と正法の時代のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではありません。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものであります。
しかし、お浄土の真実のみ教えは、お釈迦さま在世の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変わることなく、煩悩に汚れた人々を同じようにお慈悲をもって導いてくださるのであります。

このように、道綽禅師の示しによって明らかになった、決して変わることのない阿弥陀如来のお心を讃えられております。

しかし、なぜ、教えそのものが滅してしまう法滅の時代に阿弥陀如来のお救いだけは残るのでしょうか?

それは、いかなる行を励んでも迷いから抜け出すことのできない私たちのすがたを見つめた上で、私たちを救うことを第一に仏となられたのが阿弥陀如来だからでありましょう。

阿弥陀というさとりのすがたをあらわされた時点で、いつまでも続く「無量寿」の救いは成し遂げられております。

時代とともにどれだけ生物が変わろうとも、決して変わらない真実を聞かせていただく生涯を、ともに歩ませていただきましょう。

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