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親鸞聖人が「鸞」の字を使用されるほど尊敬された七高僧の曇鸞大師

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浄土真宗の中核である他力を明確にされた曇鸞大師

本師曇鸞梁天子
常向鸞処菩薩礼

本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞(曇鸞)の処に向かひて菩薩と礼したてまつる。

曇鸞大師は、梁の武帝が常に菩薩と仰がれた方であります。

今回の句より、中国の曇鸞大師の功績を讃えられます。

曇鸞大師のお示しは親鸞聖人に非常に大きな影響を与えました。

※親鸞聖人の「」という漢字は曇鸞大師の名前からいただいたと考えられており、非常に尊敬されていたのだと思われます。

特に、浄土真宗のみ教えの根幹は「他力」でありますが、「他力」の内容は曇鸞大師のお示しによります。

※「他力」という語の本来の意味は、「他人の力」ではなく「阿弥陀如来が私たちを救うおはたらき」のことであります。

曇鸞大師の生涯を振り返ってみます

曇鸞大師は北魏の孝文帝の承明元(476)年に雁門に生まれました。出家後は四論(『中論』『十二門論』『大智度論』『百論』)や仏性の研鑽に従事し、その後『大集経』の註釈を志すのですが、その途中で病に倒れてしまいます。

そして曇鸞は長寿の術を説く仙経を求めて、当時道教の大家として知られていた陶弘景を訪ね、長生の法を説く仙経を十巻授かりました。

帰る途中に、洛陽で菩提流支三蔵と出会い、その長生術を誇ったのですが、仙経による長寿は迷いの境涯での長寿にすぎず、仏教にこそ真の長寿、すなわち無量寿があることを諭され、菩提流支三蔵より『観無量寿経』を授けられました。

そこで、曇鸞は「仙経」を焼き捨ててしまい、浄土教に帰入されたのであります。

その後、并州の大巌寺に住し、後に石壁の玄中寺に入り、さらに汾州平遥の山寺に移り、67歳でいのちを終えられました。

曇鸞は、当時の中国屈指の高僧として世の尊崇を集められました。

華北の魏帝は曇鸞を神鸞と敬い、曇鸞が入滅されると、汾西の秦陵に葬して、塔を建て碑を立てて、徳を讃えられました。

また、江南の梁の武帝はつねに北に向き、曇鸞を菩薩として礼拝したとも伝えられております。

親鸞聖人が尊敬された曇鸞大師

蓮如上人の『正信偈大意』では、今回の二句について次のように示されております。

「本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼」といふは、曇鸞大師はもとは四論宗のひとなり。四論といふは、三論に『智論』をくはふるなり。三論といふは、一つには『中論』、二つには『百論』、三つには『十二門論』なり。和尚(曇鸞)はこの四論に通達しましましけり。さるほどに、梁国の天子蕭王は御信仰ありて、おはせし方につねに向かひて、曇鸞菩薩とぞ礼しましましけり。

 また、親鸞聖人は『尊号真像銘文』に次のように示されました。

「神智高遠」といふは、和尚(曇鸞)の智慧すぐれていましけりとなり。「三国知聞」といふは、「三国」は魏と斉と梁と、この三つの世におはせしとなり。「知聞」といふは三つの世にしられきこえたまひきとなり。「洞暁衆経」といふは、あきらかによろづの経典をさとりたまふとなり。「独出人外」といふは、よろづの人にすぐれたりとなり。「梁国の天子」といふは、梁の世の王といふなり、蕭王の名なり。「恒向北礼」といふは、梁の王、つねに曇鸞の北のかたにましましけるを、菩薩と礼したてまつりたまひけるなり。

「神智高遠」というのは、曇鸞大師の智慧がすぐれておられたことをいうのであります。
「三国知聞」というのは、「三国」とは魏と斉と梁であり、この三国の時代においでになったということであり、「知聞」とは三国にその名が知れわたっていたということであります。
「洞暁衆経」というのは、あらゆる経典に精通しておられたというのであり、「独出人外」というのは、人々に抜きんでておられたというのであります。
「梁国の天子」というのは、梁の王ということであり、蕭王のことであります。「恒向北礼」というのは、梁の王がいつも曇鸞大師がはるか北の方においでになるのを菩薩と仰いで礼拝しておられたというのであります。

この、親鸞聖人と蓮如上人の示しにより、曇鸞大師がいかに優れた智慧を持っておられた方か知ることができるのではないでしょうか。

『高僧和讃』では、

魏の天子はたふとみて
神鸞とこそ号せしか
おはせしところのその名をば
鸞公巌とぞなづけたる


本師曇鸞大師をば
梁の天子蕭王は
おはせしかたにつねにむき
鸞菩薩とぞ礼しける

という、「神鸞」、「鸞菩薩」と、一般的には人間に付けるはずのないような敬称で讃えられております。

それほどの功績を残された曇鸞大師でありますから、その内容が示されている次の句を味わうのが楽しくなってきそうですね。

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