善導大師だけが仏様の心をあきらかにされた??
善導独明仏正意
善導独り仏の正意をあきらかにせり。
善導大師だけが、『仏説観無量寿経』に関する誤った教説を正して、仏のみ教えの真意をあきらかにされました。
ここからは善導大師の功績を讃えられております。
「正信念仏偈」をお勤めしていると、ここから声が高くなるため、印象に残っている方も多いのではないでしょうか。
私自身、「善導独明仏正意」と高音で出すときに、「善導大師だけが仏さまの真意をあきらかにされたのである」という親鸞聖人の示しが今を生きる私に響いてくるように感じます。
「独」という字は現代では「孤独」という意味で使わることが多いです。
親鸞聖人の気持ちを知ることはできないですが、「たった独り」であらゆる学僧の教説に反論された善導大師の力強さを、私はこの漢字より感じております。
善導大師の歩まれた人生
善導大師は、大業9(613)年に、泗州(現:安徽省)、あるいは臨淄(現:山東省)に生まれた方でありました。
幼少の頃に明勝法師について出家され、妙開律師によって具足戒を受けて比丘僧になられました。
その後、大師は中国各地を遍歴して20数歳の頃に、かつて曇鸞大師が居住されていた玄中寺で道綽禅師と出遇われ、師事し、『仏説観無量寿経』などの教えを受けられました。
いつまで善導が道綽のところにおられたかは断定できませんが、貞観19(645)年に道綽が亡くなる前後の頃に長安に向かい終南山悟真寺に入られております。
その後しばしば長安に出て、『仏説阿弥陀経』を数万巻書写して有縁の人々に与えたり、光明寺での説法や、浄土の荘厳を絵図にするなど、庶民の教化に専念し、念仏の教えは広まっていきました。
その熱烈な広がりは、善導の説法を聞いた者が捨身往生を遂げるほどであったそうです。
そして永隆2(681)年、69歳の時に晩年を過ごされた西京の実際寺で往生されたと伝えられております。
終南山の山麓に、弟子の懷惲らにより、崇霊塔(善導塔)と香積寺が建立されました。
善導大師だけが誤った解釈を修正されました
古今楷定とは、善導大師が主著である『観経疏』に残された次の言葉に拠っております。
いまこの『観経』の要義を出して、古今を楷定せんと欲す。
私は今、この『仏説観無量寿経』の正しい解釈を定めることで、過去からの『仏説観無量寿経』に対する誤解を正そうと思います。
「古今」とは、過去ならびに今という意味で、「楷定」とは、正しい解釈に定めるという意味であります。
ゆえに「古今楷定」とは、善導大師以前の『仏説観無量寿経』に対する様々な解釈をただして、正しい解釈を定めるという意味になります。
どのように解釈されたかと申しますと・・・
「聖者ではなく凡夫のために、観念中心ではなく称名念仏中心、化土ではなく報土に往生する」ことを説き示した経典であることをあきらかにされました。
つまり、「程度の低い凡夫が、称名念仏という易しい行によって、報土という殊勝の浄土に往生できる」ことになります。
従来の聖道門の学解的理解を批判して浄土教の実践的理解を示されたのですが、そのような理解が成立するのは阿弥陀如来のお誓いのままのおはたらきである本願力の強調が根底にあるからであります。
阿弥陀如来の本願力によって凡夫が報土に往生していくことを主張するのが古今楷定の主要点であります。
それにしても、「善導独明仏正意」とは、とても思い切った表現ではないでしょうか。
善導大師ひとりということは、他の唐初の仏教界のすべての人は、仏、すなわちお釈迦さまの教えの真意を誤ってとらえているというのです。
そうそうたる学者のすべての方にとって、『観経』の理解に価値を見出さず、都である長安では念仏の声は絶えてしまったとまで言われた中、善導大師だけが『仏説観無量寿経』の意義をあきらかにされました。
そして、念仏一つで一生悪のみをなす凡夫が往生できる理由を開顕されました。
そのような南無阿弥陀仏一つの救い明らかにされた功績が「善導独明仏正意」の一句にあらわされております。