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この世で信心を賜り、迷いの世界に沈むことのない身に定まります

もくじ

信心を賜ったならば迷いの世界に沈むことはありません

獲信見敬大慶喜
即横超截五悪趣

信を獲て見て敬ひ大きに慶喜すれば、すなはち横に五悪趣を超截す。

ご信心を賜り、阿弥陀如来を敬う安心の生涯を賜ったならば、即時に決して迷いの世界に沈むことはありません。

この二句では、阿弥陀如来より信心を賜った即時(まさにその瞬間)に、迷いの世界を断ち切り、間違いなくお浄土に生まれさせていただけるということを示されております。

前回の句で、ご信心を賜っても煩悩がなくならないことを示されておりました。

しかし、たとえ煩悩が無くならなくても、この世界で「阿弥陀如来がいてくれて本当によかった」という想いで生きることができます。

阿弥陀如来のお救いをよろこび、ただ恩を感じさせていただく人生を、一生涯、歩ませていただけます。

そんなよろこびの人生を、今回の句から味わいたく思います。

お釈迦さまが親友であるとお讃えくださる身に定まります

本願寺八代目宗主である蓮如上人はこの二句について『正信偈大意』にて、次のように示されております。

「獲信見敬大慶喜」といふは、法をききてわすれず、おほきによろこぶひとをば、釈尊は「わがよき親友なり」(大経・下)とのたまへり。

お釈迦さまの「わがよき親友なり」という言葉は、浄土真宗の根本となる経典である『仏説無量寿経』に出てまいります。

法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし。

阿弥陀如来のお救いに疑いがなくなり、「間違いなくお浄土に参らせていただける」という生涯を送られる方は私の善き友であります。だから、ともに阿弥陀如来のお救いを聞かせていただきましょう。

そのようなお釈迦さまの勧めのお言葉が、今を生きる私たちに経典を通して届いております。

親鸞聖人は、『親鸞聖人御消息』に次のように述べられております。

また諸仏の真実信心をえてよろこぶをば、まことによろこびて、われとひとしきものなりと説かせたまひて候ふなり。『大経』(下)には、釈尊のみことばに、「見敬得大慶則我善親友」とよろこばせたまひ候へば、信心をえたるひとは諸仏とひとしと説かれて候ふめり。

また、諸仏の方々は真実の信心を得てよろこぶ人のことを心からよろこび、「わたしと等しいものである」とお説きになられております。
『仏説無量寿経』には、「名号のいわれを聞き、信心を得て法を敬い深く慶ぶ方は私の善き友であります」と、お釈迦さまは仰せになってよろこんでおられますから、信心を得た人は諸仏と等しいと説かれているのでしょう。

『仏説無量寿経』の「親友」について、諸仏と等しいものであると述べられております。

阿弥陀如来より信心を賜った方は、お浄土に生まれさせていただくことが約束されております。そのようなよろこびを、「見敬得大慶則我善親友」というお言葉から、親鸞聖人は感じておられたことがわかります。

また、『正像末和讃』に、

他力の信心うるひとを
うやまひおほきによろこべば
すなはちわが親友ぞと
教主世尊はほめたまふ

と、「見敬得大慶則我善親友」のお言葉について詠まれておりますが、ここで「ときたまふ」ではなく「ほめたまふ」と詠まれているところは注目すべきだと思います。

「ほめる」という言葉には、「相手を評価して讃える」という意味があります。子どもが良いことをした時に、頭を撫でてほめる親のすがたのようなものであります。

それでは、お釈迦さまにほめられるとは、どのような事態をいうのでしょうか。

お釈迦さまとは、苦しみの中に沈む私を救いとるために、阿弥陀如来の救いを私にお説きくださった方であります。

ですので、お釈迦さまの願いは、お念仏のみ教えを伝えることであったと言えるでしょう。

ならば、そのお釈迦さまが私をほめる理由はたった一つであります。

それは、私が信心を得ることです。

この世でご信心を賜り、決して迷うことのない身に定まります

ご信心を賜ったならば「よく阿弥陀如来の願いを聞く身になったな」と、私をほめてくださるのであります。

その情景が、上に挙げた親鸞聖人の『正像末和讃』の言葉であります。

「正信念仏偈」では続いて、「即横超截五悪趣」と示されております。

そのことについて、蓮如上人の書かれた『正信偈大意』では次のように示されております。

「即横超截五悪趣」といふは、一念慶喜の心おこれば、願力不思議のゆゑに、すなはちよこさまに自然として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のきづなを截るといへるこころなり。

ここで蓮如上人は、「五悪趣」について「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」と示されておりますが、これは私たちが迷い続ける世界の「六道」のことであります。

六道から修羅を外したものが五悪趣と呼ばれます。

地獄
地下にある牢獄の意味で、苦しみの世界

餓鬼
つねに飢餓に悩まされる世界

畜生
あらゆる動物の世界

修羅
闘争に明け暮れる世界


欲望によって苦悩する娑婆世界


楽しみが多いが、欲望にとらわれる世界

信心を得れば、このような迷いの世界を断つのであります。

尊号真像銘文』では、

「即横超截五悪趣」といふは、信心をえつればすなはち横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。「即横超」は、「即」はすなはちといふ、信をうる人はときをへず日をへだてずして正定聚の位に定まるを即といふなり。「横」はよこさまといふ、如来の願力なり、他力を申すなり。「超」はこえてといふ、生死の大海をやすくよこさまに超えて無上大涅槃のさとりをひらくなり。

「即」とはその瞬間にという意味であり、「横」とは、縦に登っていく自力ではなく阿弥陀如来のおはたらきであるという意味であり、「超」とは迷いの世界を簡単に超えてさとりを得る意味であると示されております。

ゆえに、「横超」という言葉で、阿弥陀如来のおはたらきにより、瞬間的にさとりの身にならせていただくという、他力のみ教えを表現しておられることがわかります。

そして、それほどの広大な利益を、現世を生きる私たちがいただいているのであります。

阿弥陀如来のおはたらきを聞かせていただき、ただむなしく終わっていく人生ではなく、お浄土に参らせていただくという、意味のある人生を送らせていただきましょう。

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