西暦1994年に放映された代表的なドラマに「家なき子」があります。
「家なき子」での安達祐実さんの迫真の演技は、今でも心に突き刺さるものがありますよね。
世代の方は、毎週楽しみにご覧になられていたのではないでしょうか。
母親の手術のために必死にお金を貯める。それでも父親に利用されることもあるつらいドラマでもあります。
僕自身、エンディングで「同情するなら金をくれ!」と叫ぶ安達祐実さんに感情移入してしまうこともありました。
素晴らしい作品なので何度も見返しておりますが、所々に仏教徒として大切にしなければならない考え方が出てくることに気づきました。
私たちの人生にも問いかけるような内容がありますので、このブログで仏教徒としての視点から考察していきます。
このブログをご覧になることで、仏教の教えが皆様にとっての身近なものになることでしょう。
「同情するなら金をくれ」→「人は金に負けない」
【家なき子】での名言といえば「同情するなら金をくれ!」ですよね。しかし、続編の【家なき子2】ではこの言葉は使われておりません。【家なき子2】の名言は、
「人は金に負けない!」
になっているんです。この言葉を主人公のすず(安達祐実さんが演じる)だけではなく、最後に亡くなるお父さんも使っているんです。
※お父さんはお金に負けるばかりだったのにね…って話は置いといて、
一見、「同情するなら金をくれ」と「人は金に負けない」は正反対のことを言っているようであります。しかし、この言葉はお金への執着という点で同じことを意味しております。
すずが「同情するなら金をくれ」と言っていた時、実は、お金に執着しているのではありません。母親の命に執着している姿なんです。
だから「同情するなら金をくれ」と言ってますが、すずは金への執着には負けていません。
決して贅沢することなく、貯めたお金は病院に預けて貧しい生活をしていたすずの姿がそのことを明確に教えてくれております。
お金は幸せの条件。お金への執着は不幸の条件
つくづく感じることでありますが、お金への過度な執着は不幸の条件になります。
一方、お金は幸せの条件です。「お金が全てじゃない」という言葉もあり、正しいことでもあります。しかし、お金さえあれば叶うことも多いのが現実です。
また、金銭的な自立ができていなければ精神的にも弊害を及ぼすこともあります。
現代社会では物々交換だけで生きていくことはできませんので、金銭的な自立と精神的な自立は密接な関係があると言えるでしょう。
しかし、金銭への過度な執着には注意が必要です。
家なき子で、すずのお父さんはすずの稼いだお金を奪い取るシーンがあります。それだけではなく、家なき子2では、すずのお父さんがすずを殺害するために発砲するシーンがあります。
ヤクザに騙されて借金を背負ってしまい、自分を守るために娘の命を傷付けてしまう。
人の価値よりも金銭の価値の方が強くなってしまうと人間関係が破綻します。人間関係を断ち切れないのが人間生活ですので、そこから孤独になり不幸になっていきます。
人生は何事も物質や金銭への過度な執着は禁物です。本当に幸せな人生を歩むためにも、「人生の目的」と「自分にとっての幸せ」を明確にしましょう。
生きることは苦しむこと?人生の意味を明確にしましょう
母親の手術代のためにすずはお金を貯めておりましたが、手術費用は一般的には考えられないような額でありました。
というのも、普通の医師では完治させることができない病気だったので、京本政樹さんが演じる黒崎医師に依頼するしかなかったのです。
黒崎医師は手術代として莫大な金額を請求することで有名でしたが、その理由として次のような言葉を残されております。
「生きてて何の意味がある。私が金持ちの相手しかしないのは生かして苦しませるためだよ」
この言葉は、私たちの人生の本質を突いているのではないでしょうか。
この世に望んで生まれてきた人は一人もいません。また、人として生きることは選んで生まれてきた人も一人もいません。誰もが、気づいたら人としての命を賜っており、周囲から「頑張って生きなさいよ」と言われるがままに生きております。
もしも、人として生きることを選んでいるのなら、人生の意味があるはずですよね。
そして、この人生は、もちろん楽しいこともありますが、苦しみから逃れることはできません。
お釈迦さまは「一切皆苦」であることをお説きになられました。生きている限り、誰一人として苦悩から避けることはできません。誰もが思い通りにならない現実を生きなければなりません。
そう考えますと、黒崎医師の「生かして苦しませるためだよ」という言葉は本質を突いており、人間の生存欲求を利用しているとも考えられます。
だからこそ、この人生をより充実させるために、あなただけの人生の意味を明確にしましょう。
金銭や名利といった手に入れても無くなる時がやってくるものではなく、決して無くなることのない「あなたのありたい姿」を目的にすることが大切です。
それだけであなたは意味のある人生を歩むことができます。
人間は弱いからすぐ裏切る。人間は1番弱い生き物かもしれない
人間として生きておりますと、他の生物を利用したり操ったりすることがあります。
「人間こそ強い生き物だ!」と錯覚しそうになりますが、家なき子2の中ですずは正反対の言葉を残されております。
「人間は弱いからすぐ裏切る。人間は1番弱い生き物かもしれない」
すずの相棒といえば犬の「龍」でした。最終回ですずのために命を終えていくのですが、龍の命が終えた時にすずが言った言葉が「人間は弱いからすぐ裏切る。人間は1番弱い生き物かもしれない」です。
確かに、人間は自分の欲望のために他者を裏切ることがあります。他者のために尽くそうと思って生きても、自分が最も可愛いのは自分自身です。
他者のために自分の命を投げ出すことは多くの方はできません。どこまでも自己中心性から離れられないのが人間の本性であると仏教は教えてくれます。
仏教では、人間界は煩悩の世界であると説かれます。煩悩とは自己中心性のことです。自己中心に欲しいものを追い求め、自己中心に他者を傷付けていきます。
人間同士を比べて「自己中心やね〜」と揶揄しているのを聞くことがありますが、そもそも全員が自己中心ですから比較することはできません。
それよりも、自己中心に他者にために尽くす人生を送らせていただきましょう。
自己中心的利他の人生を歩みましょう。他者のよろこびが自分のよろこびになれば素敵なことですよね。
復讐という魔物に取り付かれる。人には魔物が住んでいます
家なき子2では、すずが正当な屋敷の後継者として遺産を奪う物語が展開されます。
ちなみに、すずは正当な後継者ではありません。
父親に誑かされて屋敷に入るのですが、この屋敷で一人ずつ殺害されていきます。
屋敷の人間を殺害していた真犯人は、すずと同じく遺産相続目当てで転がり込んできたいじめられっ子だったのですが、このいじめられっ子を捕まえた時にすずは次のように言われました。
「あなたは復讐と言う魔物に取り付かれていただけだった」
誰もがそういう時って経験されているのではないでしょうか。私たちが自己中心的に起こしていく煩悩が無くなることはありません。
浄土真宗の親鸞聖人は次のような言葉を残されております。
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず
自己中心性の煩悩を抱えておりますから、自分勝手な怒り、腹立ち、嫉み、妬みの心が決して無くなることはありません。そのような心に支配されている状態を「あなたは復讐と言う魔物に取り付かれていただけだった」と家なき子2では言われております。
また、このような復讐の心に支配されていると周囲が見えなくなってしまいます。
この世に自分と同じ価値観の方は一人もおりません。誰もがバラバラの価値観を抱え、それぞれの人生を、それぞれが正しいと思った方向に歩んでおります。
もしも、自分が復讐などの他者への危害を及ぼす可能性がある考えに支配されているなら、その時こそ自分を見つめ直しましょう。
すべての方に煩悩という魔物が住んでいることを忘れてはならないと思います。
家なき子2最後のことば。すべての命は繋がっている
ここまで、家なき子の内容について仏教的視点を混じえながら考察してきましたが、最後にすずの最後のことばを紹介します。
黒崎医師がすずに「すず、また一人になってしまったな」と声をかけると、すずは次のように述べられました。
「私は1人じゃない。すべての命とずっとつながっているんだ」
一人の例外もなく、生まれてきたからには必ず命を終える時がやってきます。
そして、命が終えるとにこやかな表情を見ることはできません。声を聞くこともできません。気持ちを感じることもできません。
それでは、永遠にお別れなのでしょうか?
ここですずは「すべての命とずっとつながっている」と述べられているのですが、この価値観を私たちの人生においても大切にしたいものです。
誰もが一人で生きていくことはできません。ですので、私たちが生きているということは様々な方の支えがあるということです。
それは、生きている方の話だけではないでしょう。
ご先祖様がいたから私たちの命が存在するのと同じように、全て受け継がれて、今、私たちは人間として人生を歩んでおります。
つまり、大きな繋がりの中にあるこの命です。
身近な方の命が終えても、ただ「さようなら」だけではなく、この命を無駄にしないように、これからも繋がっているんだという価値観を大切にしましょう。