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大宝海と喩えられるほどの功徳を賜りつつ今を生きさせていただく

もくじ

大宝海と喩えられる功徳によって救いの身になることができます

帰入功徳大宝海
必獲入大会衆数

功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。

あらゆるいのち区別せずに導かれる海のような阿弥陀如来のお誓いに疑いのない身となったならば、お浄土に生まれさせていただくことが間違いない身に定まります。

阿弥陀如来のお救いについて、「大宝海」という、これ以上無いような表現で讃えられております。

「宝物」という言葉には「貴重な品物」という意味があります。

阿弥陀如来のお救いは、「煩悩を抱えたまま救う」という、本来ならあるはずがないものでありますが、すでに届いていたお救いでありますので、「貴重」とは中々考えられません。

また、「重宝」という言葉もあります。この言葉には、「得難く尊い」という意味があります。

私の努力では得ることのできませんが、阿弥陀如来が出遇ってくれた境涯にいのちを授かっております。これほど尊いことはないと「宝」という言葉に感じさせていただくところであります。

大宝海と讃えられるほどの南無阿弥陀仏の功徳を賜ります

今回の二句について、蓮如上人は『正信偈大意』にて、次のように解釈されております。

「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」といふは、大宝海といふは、よろづの衆生をきらはず、さはりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海の水のへだてなきにたとへたり。この功徳の大宝海に帰入すれば、かならず弥陀大会の数に入るといへるこころなり。

弥陀大会の数」とは、正しく仏さまになることが定まったなかまである正定聚を意味しております。

功徳の大宝海について蓮如上人は、「誰もが救われていく」ということを中心に示しておられるようですが、『一念多念文意』の中で親鸞聖人は、功徳を中心に解釈されております。

「功徳」と申すは名号なり。「大宝海」はよろづの善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに、大宝海とたとへたるなり。

「功徳」 とは、名号のことであります。
「大宝海」とは、あらゆる功徳が欠けることなく満ちていることを海にたとえておられるのであります。そしてこの功徳であるご本願のはたらきを信じる人の心に、すみやかにはやく、欠けることなく満ちわたらせることを知らせようというのであります。
そのようなわけで、金剛の信心を得た人は、知らなくても求めなくても、すぐれた功徳の宝がその身に満ちみちるので大宝海とたとえておられるのであります。

ここでの「功徳の大宝海」とは、広大な海のようにあらゆる功徳が欠けることなく満ちておられる名号のことであると示されております。

南無阿弥陀仏の功徳を賜りつつお浄土を目指す人生を歩む

名号南無阿弥陀仏には、阿弥陀如来の修行時代であった法蔵菩薩の願いと行のすべてが凝縮されております。

無量と表現されるように、功徳は量ることすらできません。

それほどの名号であるから功徳の大宝海というのであります。

その名号の功徳により「大会衆数に入る」と表現されておりますように、かならずお浄土に生まれさせていただく正定聚の位に入るのであります。

正定聚の位に定まった方はこの世にありながらお浄土の菩薩と同じ仲間に入ることができるという利益が得られるので、この世で生きていながらも心はお浄土を遊ぶ者として生涯を全うさせていただきます。

お浄土という世界は、決して遠い世界ではないことを知らされつつ、この世界で、今を生きる私が阿弥陀如来のお心を聞かせていただけるなかまに定められていることを知らされます。

お浄土を通して阿弥陀如来のお心を知らされつつ合掌して送る人生が念仏者の生き方であることを、今回の二句を通して知らされるところであります。

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