救いが定まっても煩悩が消え失せることはありません
已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧
常覆真実信心天
すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
阿弥陀如来のおはたらきにより信心を賜りましても、煩悩がなくなることはありません。
自分に執着し、他人に腹を立て憎しむ心が、いつも信心を覆っているようであります。
阿弥陀如来よりご信心を賜ったら、人に腹が立たなくなることはありません。
毎日、余計なことを言わず考えず、ひたすら阿弥陀如来のことばかりを思うかといえば、そうでもありません。
救われても、凡夫(煩悩を抱えた人)であります。
救われたよろこびとともに、煩悩を抱えた自分自身の恥ずかしさ、痛ましさを知らされます。
よろこびとかなしみをともに感じつつ人生を送るのが、阿弥陀如来より信心を賜った私の生き方であります。
無明の闇と表現されるほどの苦悩を抱えて生きる私の本当のすがた
「無明」とは、愚痴・無知ともいわれ、苦悩の根源となるものであります。苦悩の生じる因果関係について十二段階に分けて説かれた十二因縁というものがあります。
その十二因縁を、十二番目の「老死」から順に見ていきますと次のようになります。
12老死
無常であり、老と死は避けられないこと
11 生
老死が避けられないのは、生まれるからです
10 有
生まれたのは、輪廻があるからです
9 取
輪廻があるのは、執着するからです
8 愛
執着の根源的なものは、渇愛です。
7 受
渇愛があるのは、感受作用があるからです。
6 触
感覚作用があるのは、接触があるからです。
5六処
接触は、眼耳鼻舌身意の感覚器官と、
4名色
肉体と精神があるからです。
3 識
また、識別作用があるからで、
2 行
行為を支配する潜在的形成力があり、
1無明
根源的な無知があるからであります。
このように、苦悩の原因は無明でありますので、無明を滅することは苦悩を滅することになります。
しかし、その無明を私の努力で滅することはできません。
阿弥陀如来より智慧のはたらきを賜ることによってのみ、無明の私と知らされる人生が始まります。
無明の私だからと悲しむ必要のないことを教えてくれております
親鸞聖人は『正像末和讃』に、次のように詠まれました。
智眼くらしとかなしむな
「灯炬」とは、無明の私を照らし続ける大きなともしびのことであります。
阿弥陀如来のお救いにたとえられております。私の努力ではどうしようもない無明の中にいる私を導こうと照らし続けておられる阿弥陀如来です。
そのような、私を見捨てることなく、ともしびとなってくださる阿弥陀如来がおられます。
だからこそ、何の心配もいらないという絶対の安心を「智眼くらしとかなしむな」と讃えられたのでありました。
「已能雖破無明闇」とありますように、苦悩の根源が絶たれましても、次の二句で「貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり」と示されております。
「貪愛」とは、自己中心の欲望を追求して、あらゆるものを欲しがり執着する心であります。「瞋憎」とは、それがかなえられない時に腹を立てて、怒り憎しむ心であります。
ですので、貪愛・瞋憎とは無明であり煩悩であります。
そして天にたとえられている真実信心は、阿弥陀如来より賜る信心でありますので、この二句で煩悩によって真実信心を覆い隠す生活をしている私のすがたを述懐されでいるのでしょう。
煩悩を悲観しつつ阿弥陀如来の救いをよろこばせていただく
親鸞聖人は『一念多念文意』に次のように示されております。
信心をいただくと煩悩がなくなるのではありません。「臨終の一念にいたるまで」といわれているように、いのちを終えていくその時まで、煩悩から離れることはできません。
人生において煩悩を無くそうと努力することも大切かも知れません。
しかし、浄土真宗のみ教えを学ぶものとして、煩悩を抱えたままでしか生きていけない自分自身のすがたを知らされつつ、そのような私を放っておかない阿弥陀如来がいるんだということを聞かせていただく生活を送ることが大切です。
決して無くなることのない煩悩を抱えていると知らされつつ、そのような私をそのまま救いとろうという阿弥陀如来のお心のもとに生涯を送らせていただけるって尊いことですよね。