「信心している人?」「迷っている人?」

謎の人
あの人は信心しているよね

そのような言葉を聞くことが多くあります。

皆様は、どのような方を「信心している人」と思われるでしょうか?

宗派関係なくどこでもお参りする人

色々なところにお参りに行っている人のことを「信心している」と聞くことがあります。

確かに、お寺も神社も関係なく色々なところにお参りする人を見て、

えいかい
あの人は神も仏も大切にして素晴らしいな〜

僕も、四六時中、仏様のことを思わなくちゃ!

そう思うこともあります。

しかし、色々なところにお参りに行く人を「信心している人」と本当に言えるのでしょうか?

むしろ、迷っているように思われることがあります。

本当に「これで間違いない!!」と思える信仰に出会っているならば、色々なところにお参りに行く必要はありません。

間違い無いと思える信仰一つを大切にすればいいのです。

そうではなく、闇雲にお参りに行くのは、どこに行っても落ち着けない。

あるいは、どこに行っても解決できない。

神や仏を利用しなければ心が落ち着かない。

そのような迷いであるように思えてなりません。

お参りしているのではなく迷っている

本当に「これしかない!」というみ教えに出会えた時、他のところにお参りに行こうと思う気持ちは湧いてきません。

「これしかない!」と思える場所に通いつめます。

そうなった時に、迷っていた私の姿に気付かされます。

迷いの意味

迷うという漢字は、たくさんの道があって行く道がわからないことを意味します。

この世界には様々な信仰がありますから、迷って当然です。

「どっちに行こうか・・・」

そのような選択の連続が人生でありますので、「これしかない!」と私が思うことは非常に困難です。

まだ、私の進む道が多すぎて迷うだけならばいいのですが、仏教は、私の存在そのものが迷いの存在であると教えてくれます。

迷っていることにすら気付けないのが私です。

迷って違う道に進んでいっても、それに気付くことはできません。

そうして、どんどん自分の欲望の中に沈んでしまう。

決して変わることのない阿弥陀さまのお救い一つが正しい道にも関わらず、他の方向にばかり歩んでしまう。

そんな私に、「その道ではないよ、こっちにおいで」とよんでくださる言葉が南無阿弥陀仏です。

その南無阿弥陀仏のお救いをそのまま聞かせていただくことが浄土真宗の信心でありますので、信心とは、私が頑張って起こしたものではないのは明らかであります。

信心は賜り物

「信心している」という言葉は「私が信じている」という勘違いを生みます。

浄土真宗では、「私が信じる心」は必要ありません。

「信心している、していない」と他者と区別をつけるのではなく、「私が信じる」という私の心をあてにするのでもなく、ただ私を救うために南無阿弥陀仏となってつねによびかけてくださる阿弥陀さまのお救いを聞かせていただきましょう。

阿弥陀さまはいつも一緒です。

阿弥陀さまのお救いは疑いようがありません。〜浄土真宗では「信心している、信じてる」ってわざわざ言わなくても大丈夫〜

みなさまの優しいシェアをありがとうございますm(__)m