「お坊さんの法話」って、
どのようなイメージでしょうか?
「むずかしいお話」
「おもしろくないお話」
そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。
話を聞くことや、
長い文章を読むことに、
疲れを感じる方もおられるでしょう。
ですので、
今ブログでは、
「一口法話」として、
主観的な文章を書いていきます。
みなさまといっしょに、
「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」
そう思えたら素敵だなぁと思います。
合掌
目に見えるものや、科学で実証されるものだけを信じる人生ってむなしくないですか?
目に見えなくても、私たちは無意識に「人の心」を信じられる生き物です。
だから、人を信頼できるのでしょう。
しかし、目に見えるものだけを信じて生きる私たちがこの疑問を持つのは、何も不思議なことではありません。
だから科学は発達しているのでしょう。
私自身、普段の生活やお参りの中で、次のような言葉を聞くことはよくあります。
「阿弥陀さまは本当にいるの?作られた仏さまじゃないの?」
実は、このように、阿弥陀さまの実在について迷いを持っている時点で、私たちは迷いの中にいます。
迷いの中どころか、私の存在自身が迷いですからね。
私の中に真実はありませんもん。妄語ばかり。
そんな迷いの中に埋もれ、何が真実か正しく見極める事ができない。
無意識に、自分の都合だけをモノサシに真実を見極めようとする。
不幸だと思う事が続いたら「仏はいない」と思い、
心が落ち着く時には「仏さまのおかげ」という。
仏さまの実在すら、自分の都合で作っていませんか?
普段の生活の厳しさに、どうしても迷いますが、生活の中で大きな支えとなる阿弥陀さまの御心を聞かせていただく時間を作ることも大切ではないでしょうか。
加茂仰順和上の、阿弥陀さまの実在に関する次のような言葉があります。
私共が弥陀の実在を認めようが認めまいが、それらの人間の概念を超えた絶対的真実の実在が阿弥陀仏です。それを概念的な自分の意識の中に認めようとすることは間違いです。それでは少しも分らないかというに、私共を超えて実在される弥陀は、弥陀から直接に与えられる「真実信」に於いてのみ味得されるのです。
だからそのことは弥陀の実在を先ず確立しておいて、それを認めてゆこうとすることではなく、その本願のいわれを聞く者には、現に今新しく、いきいきとせまってくるのであります。
(『安心座談』 8、9ページ)
「阿弥陀さまがいるかいないか」
それは、議論するものではありません。
私たちの頭で考えても、いつまでもわからないでしょう。
むしろ、頭で考えたら、阿弥陀さまの存在は研究対象となってしまいます。
阿弥陀さまは研究対象ではありません。
阿弥陀さまとは、私たちの頭では考えることのできない「私たちを救う」という真実のはたらきそのものであります
浄土真宗のみ教えを聞かせていただく中で、
「阿弥陀さまは間違いなくいる」というよりも、
「阿弥陀さまのおすくいの真っ只中であった」と知らされます。
自分のはからいではどうしようもない程の罪を抱え、迷いそのものの存在である私を導こうとはたらき通しの阿弥陀さまがいると知らされます。
阿弥陀さまの願いは、そのように今を生きる私の心の支えとなります。
本来ならば、すくわれるはずのない私を第一の目当てとし、私が気付く前から、私をすくうために願いを建て、私を「ただすくいたい」という阿弥陀さまの実在を、生きている今、聞かせていただきます。
「南無阿弥陀仏」の六字のお言葉となって、私をすくおうという阿弥陀さまの願いは、元気な今、聞かせていただくべきです。
お互いに良かったですね。
当たり前のようにお念仏を恵まれる人生を歩ませていただいて。
阿弥陀さまのおすくいの真っ只中に、私たちは確かにいるんですね。
妄語ばかりの人生で、ただ一つの真実である「南無阿弥陀仏」をいただく人生を、ともに歩ませていただきましょう。