
「お坊さんの法話」って、
どのようなイメージでしょうか?
「むずかしいお話」
「おもしろくないお話」
そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。
話を聞くことや、
長い文章を読むことに、
疲れを感じる方もおられるでしょう。
ですので、
今ブログでは、
「一口法話」として、
主観的な文章を書いていきます。
みなさまといっしょに、
「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」
そう思えたら素敵だなぁと思います。
合掌
何のために生きているんだろう・・・
みなさまは、生きている理由について考えたことはないでしょうか?
私も、浄土真宗が「私の人生だった!」と気付かされるまで、何度も何度も考えました。
みなさまにとっての生きている意味とはなんでしょうか?
守るべきものを守るために生きている方もおられます。
孫に生きた証を残すために生きている方もおられます。
夢を叶えるために生きていられる方もおられます。
そして、気が付けば、
衣食住のために生きていたという方もおられると思います。
生きていくためには衣食住をしなければなりません。
衣食住をするには、はたらかなくてはなりません。
そうして人生を送って、気が付けば生きていくことに精一杯だった。
という方もおられるのではないでしょうか。
でも、ここで一つ考えたいことがあります。
それは、人生の目標についてです。
かならず死に至るのが私たちのいのちです。
しかし、「死」について考えることを避ける風習があるようです。
目的地をしっかり見極めた上で、いかに生きていくか、人生の目標とは何かを考える必要があるように思います。
ゴールがわからないマラソンを走る人生ではなく、ゴールを見定めた上で、そこに走っていく人生を全うしたいですよね。
そのために大切なことは何か?
浄土真宗では、聞法が最も肝要です。
阿弥陀さまの御心を聞かせていただき、念仏者として育てられていくのが、浄土真宗のみ教えを聞かせていただく者の生き方です。
つまり、人生とは、「聞法の道場」です。
生きている間に様々なものを求め、生きる目標も変化していく中で、これだけは変わることがありません。
だって、阿弥陀さまのおすくいに変化はありません。
生きる目標もそれ一つだと心得たいものです。
そうすると、「はたらくために生きている」のではなく、「生きるためにはたらいている」という位置に立てるのではないでしょうか。
必死になる人生の中で、その中心ははたらくことではなく聞法である。
そう思えることが、本当の意味での人生の充実を与えてくれるのではないでしょうか。
様々な学者が述べてきた言葉ですが、
「人生とは苦である」
私の生きている理由は、浄土真宗のみ教えに出遇うことでした
浄土真宗というみ教えは、「人生は苦だけじゃなかった」と教えてくれます。
このみ教えに出遇わせていただいたならば、生きていく間に迷うことは多くあっても、人生の目標に迷うことはありません。
その人生は、いつもご一緒の阿弥陀さまに抱かれている現実をよろこばせていただくばかりの人生であります。
そのよろこびはとっても不思議で、「自分一人のもの」にするのではなく、「一緒によろこんでいこうよ」という気持ちが自然と湧いてきます。
そう、知らせていただける浄土真宗のみ教えを、ともに聞かせていただく生涯を歩んでいきませんか?
「このみ教えに出遇わせていただいて本当によかった」
そう知らされる心豊かな生き方ですよ。