
文字の読み書きができなかった庄松さん。
その影響もありますが、
そんな庄松さんのおつとめは、
とっても特徴的。
でも、
ただ特徴的で面白いだけではありません。
私たちにおつとめしている時の、
本当に大切なことを教えてくれているようです。
『御文章』を「いただく」ということ
『御文章』とは、本願寺派8代目宗主の蓮如上人の法話と捉えても大丈夫かなと思います。
おそらく、浄土真宗の御門徒さまは聞かれたことがあるでしょう。
法事の時に、お坊さんが最後に丁重に読まれているでしょう。
その『御文章』の庄松さんの「いただき方」に、「なるほど〜!」と思いました。
「1帖目より5帖目まで、みな聖人一流の御文章で有難いのじゃ」
庄松さんが綾歌郡瀧宮という所で法座を開いた時、法座の終わりに御文章を拝読しようと2帖目を取り出し、「聖人一流は有難い」と言ったので、集まった人々は、「聖人一流は5帖目であります」と言うと、庄松さんは「1帖目より5帖目まで、みな聖人一流の御文章で有難いのじゃ」と言われました。
『聖人一流章』とは、本願寺派8代目宗主の蓮如上人によって著された『御文章』の五帖十通目にあります。
浄土真宗本願寺派や真宗興正派などでは、法話のあとや、法話で詠まれることもあり、経本にもかならず掲載されているため、多くの方に親しまれております。
『御文章』は五帖八十通と言われておりますが、これは多くの『御文章』の中でも、特に肝要なものを蓮如さんのあとに本願寺の門主となられた実如さまがまとめられたものであります。
その五帖八十通にはそれぞれ通称がありますが、庄松さんは「1帖目より5帖目まで、みな聖人一流の御文章で有難いのじゃ」と言われました。
庄松さんのおっしゃる通りですよね。
『御文章』は親鸞聖人があきらかにされた浄土真宗のみ教えを、蓮如上人が人々に伝えるために書かれたものであります。
親鸞聖人の意図を、そのまま蓮如上人が広めたものでありますので、すべて親鸞聖人一流ですよね。
次の話は、庄松さんのちょっとユニークで、庄松さんらしい『御文章』のいただき方があらわれています。
「お前たちはお勤めして、如来様に聞かせるつもりだから勿体ないが、おらは如来様から下されるものをいただくのじゃで、よりどりして甘いところを喰うのじゃ」
ある家に庄松さんが泊まり、仏壇の前で『正信念仏偈』と「三首引」はどうやらこうやら勤められましたが、『御文章』になると、
「信心を以って本とせられ候」
「佛の方より往生は治定せしめたまふ」
「このうえの称名は」
と、飛び飛びにお勤めされました。それを聞いていた人が、「勿体ない」と言うと、庄松さんは「お前たちはお勤めして、如来様に聞かせるつもりだから勿体ないが、おらは如来様から下されるものをいただくのじゃで、よりどりして甘いところを喰うのじゃ」と言われました。
お経には、「私へのすくい」が説かれております。
実は、私が誰かをすくったり、仏さまに聞かせようという心持ちでお勤めするものではありません。
「お経はあげる」のではなく、「お経はいただく」ことが大切と言えます。
いつも庄松さんのいただき方には驚かされますね。
実は、私は、初めてこの話を読んだ時、「庄松さんは文字が読めないのを隠してるんじゃないか?」と思いました。笑
しかし、そうではなかったですね。
庄松さんは文字を読んでいたのではなく、お経に説かれている阿弥陀さまの御心をいただいておられたのであります。
「私のすくい」としてお経をいただく
「庄松をたすくるぞ、庄松をたすくるぞ、と書いてある」
勝覚寺の住職は、庄松さんを大変かわいがっておられましたので、役僧の一人が羨ましく思い、庄松を困らせて恥ずかしい思いにさせようと思いました。『浄土三部経』を取り出し、庄松さんに向かって、「お前は有難い同行さんじゃが、この大無量寿経の下巻の、この御文を読んでみよ」と言うと、庄松さんは「庄松をたすくるぞ、庄松をたすくるぞ、と書いてある」と読まれました。
お経を読むとは、お経に説かれている阿弥陀さまの御心をいただくことであります。
今回のお話で出てきた『大無量寿経』とは、浄土真宗の根本となる経典です。
そこには、「すくわれがたい私をすくうために、願いを起こし、願いが成し遂げられたままにはたらき続けておられる」という、「私へのすくい」が説かれています。
私に「どういう生き方をしなさい」ということは、ほとんど言われず、「かならずすくう」という阿弥陀さまの御心を『大無量寿経』を通していただくならば、「庄松をたすくるぞと書いてある」という他にないですよね。
このお話に触れてから、私自身も「英海をたすくるぞ」といただいているのですが、そのようにお勤めをしていますと、ただ読むだけだったり、意味を考えるだけで終始していた私のすがたに気付かされました。
本当に、庄松さんの言動には、私自身のすがたを問われます。
ちょっとドキドキな庄松さんの法話の聞き方
「おらはそんなこと知らぬ。今のあるだけは、今夜喰いたいと思っておじやを炊いているが、猫が喰わなよいが、説教が早く済めばよいがと思っているだけじゃ」
ある人が庄松さんとともにお寺へお参りに行き、説教の間に「庄松はん、なんぞ有難いことを聞かせておくれ」と聞くと、庄松さんは「それはあの人に聞け」と御本尊を指差しました。その人が「いや、御同行の御領解を」と再び聞くと、庄松さんは「おらはそんなこと知らぬ。今のあるだけは、今夜喰いたいと思っておじやを炊いているが、猫が喰わなよいが、説教が早く済めばよいが」と思っているだけじゃ」と言い、その場にいた皆が大に恥いたそうです。
この話で庄松さんが伝えようとされていることは、大きく次の二つかなと思います。
2、 あんたは、説教が早く終わって欲しいと思ってないか?
法話を聞かせていただいている時、阿弥陀さまのお取次として聞くことがなかなかできません。
「本当か?」、「もっとわかりやすくして欲しい」という疑いが先走ります。
「有難いことは南無阿弥陀仏しかない」というのが、庄松さんの徹底した勤行姿勢でありました。
私たちは、法話を通して「南無阿弥陀仏」のお取次を聞かせていただきます。
しかし、聞いている私の心はそっぽを向くばかり。
ゆっくり、そのまんま、力を抜いて聞きたいですね。
姿形ばかり気にせず、そのまんま聞く。
うん! 聴聞も難しい!
いや、簡単! いや、難しい!
捉えかた次第ですね。笑
余計なことを考えず、スーッと法話が聞こえてきたら一番素敵であります。
なんまんだぶ、なんまんだぶ。