
み教えを聞かせていただくことも、
お念仏を称えていることも、
すべて阿弥陀さまのおはたらきによります。
当たり前じゃなく、
尊いお育ての中だったんだ!
そう知らせていただけます。
これが、
他力のお救いであります。
阿弥陀さまのお誓いのままをいただくばかりであります
「親から下されるのをタイタイした心じゃ」
庄松さんは、津田町神野の田中平九郎氏のもとで長い間お世話になっていました。
ある時、平九郎が「第十八願の御心を一口に言うて聞かせて下され」と聞くと、庄松さんは「親から下されるのをタイタイした心じゃ」と言われました。
「第十八願」とは、「あらゆる方々を、私の誓いを信じ、お念仏称える方に育て上げ、お浄土に生まれさせ、仏のさとりを開かせよう」という阿弥陀さまのご本意の願いのことであります。
阿弥陀さまの御本意である願いですので、「本願」とも言われております。
その内容は、
設我得佛十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法
たとえわたしが仏となり得ても、あらゆる世界のすべての者が、わたしの願いを疑いなく信じ、わが国(浄土)へ生まれることができると思い、わずか十回でも念仏を称えているのに、浄土に生まれることができないようなら、わたしはさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏法を誹るものは除く
この十八願(本願)が成し遂げられ、「南無阿弥陀仏」というさとりのすがたを取り、私たちにはたらき続けておられるのが阿弥陀さまであります。
仏さまのことを考えようともしない。お念仏を称えようともしない。
そのような私のいのちに至り届き、仏さまのことを想い、お念仏を称えるものに育て上げ、お浄土に導こうとはたらき続けておられる阿弥陀さまです。
今、仏さまのことを想わせていただき、お念仏を称えている。本来ならば「ありえない」ことであります。
そうさせていただいている現実のままが、本願のままに阿弥陀さまが私にはたらいている現実です。
そのような自身の現実を、庄松さんは「親から下されるのをタイタイした心じゃ」と言われました。
「タイタイ」とは、赤ん坊が親に何かをいただいてよろこんでいる様子をあらわします。
つまり、人間の頭で阿弥陀さまのことを知ろうとはからうのではなく、私のはからいは何の役にも立たないと知らされた時、赤ん坊のように「タイタイ」とお任せするより何もないことが知らされます。
また、そんな私だと知りぬいた上で、私にかけられた阿弥陀さまの願いが本願です。
日々の生活の中で、ともにお念仏を称えている現実をよろこび合えたら素敵なことだと思います。
次の言動に、そのような「阿弥陀さまより賜った私の信心」のすがたを、非常にわかりやすくしめされております。
「信心を忘れた」
三木郡田中村にて、森山勝次郎と富田およしの三人で高松の別院にお参りに向かう途中、急に庄松さんが、「さあ、しまった、しまった、忘れ物をした」と言いだしたので、勝次郎が「何を忘れた?」と問いました。すると庄松さんは、「信心を忘れた」という言葉とともに、「南無阿弥陀仏」と言われました。
信心は、阿弥陀さまのおはたらきにより賜るものであります。
つまり、「南無阿弥陀仏」のおはたらきによるものであります。
ですので、信心も念仏も本質は別ではなく、阿弥陀さまのおはたらきに他なりません。
阿弥陀さまのお救いに区別差別はありません。すべてのいのちに平等に届いております
私は無意識に他人を区別してしまいます。
たとえば、「好きな人」「嫌いな人」
「嫌いな人はいない」という方もおられるかと思われます。
もっとわかりやすい表現をしてみましょう。
「関わりやすい人」「関わりづらい人」
これも区別です。
この心は、誰もが持っているものであり、決してなくすことはできません。
しかし、阿弥陀さまのお救いには一切の区別はありません。
動物もすべて平等です。
[aside type=”normal”]人間も動物というご指摘もあるかも知れません。また、人間と動物を分ける心はあまり良くないのでは?というご指摘は勘弁ください。[/aside]
そのことを、庄松さんが次の言動で示しておられます。
「お前何を聞いておる。おらは犬には言わぬ、犬も十方衆生の中、それじゃで弥陀の誓いがかかりてあると思うたら、思わず御誓いに御免をいうたのじゃ」
木田郡田中村を、庄松さんがある僧侶と歩いていた時の話です。
庄松さんは犬の前を「御免」と言いながら通りました。その時の会話です。
僧侶「お前何を言う。犬に礼するものがあるか」
庄松「おらは犬にいやせぬ」
僧侶「今言うたではないか。たから、お前を人がバカというのじゃ」
庄松「お前何を聞いておる。おらは犬には言わぬ、犬も十方衆生の中、それじゃで弥陀の誓いがかかりてあると思うたら、思わず御誓いに御免をいうたのじゃ」
庄松さんの視点にはいつも驚かされます。
生きていると、自然に人間と他の動物を区別していきますよね。
人間同士でも何かと差を付けたがるのが、人間の悲しさですが、庄松さんにとっては、生き物すべてに区別はありませんでした。
それはなぜでしょうか。
庄松さんは人間でありながら、人間中心の視点ではなく、阿弥陀さまの願いを中心とした視点を大切にされていたからであります。
十八願の中に「十方衆生」という言葉があります。
「あらゆる世界に生きるすべてのいのち」ということです。
いのちに区別は一切ありません。
そのような阿弥陀さまの願いの中で、無意識に区別や差別をしていく私の悲しさを知らされます。
それと同時に、阿弥陀さまのすくいのもとでは、すべて平等というあたたかさを知らされます。
皆さまで、一緒に、平等に届いている阿弥陀さまの御心を味わっていきたいですね。
「自分が仏になること」よりも、「私を救うこと」が先である阿弥陀さまのお誓い
私は、ここから出てくる二つの言動が、庄松さんが最もよろこばれたものであると思っております。
その言動は、ありがたく、ユニークなものであります。
「こんにゃくが好きじゃ、こんにゃくが好きじゃ」
ある僧侶と庄松さんの会話です。
僧侶「こんにゃくがうまいか、豆腐がうまいか」
庄松「こんにゃくがうまい」
僧侶「おらは豆腐がうまい」
庄松「こんにゃくが好きじゃ、こんにゃくが好きじゃ」
僧侶「なぜに?」
庄松「若不生者とあるからじゃ
「若不生者」とは、「ニャクフショウジャ」と読みます。
世間的に言いますところの、ダジャレっていうやつです。
本願の中に、「若不生者不取正覚」という言葉が出てまいります。
「もしも、生まれさせることができないようならば、私はさとりを開かない」という阿弥陀さまのお誓いのことであります。
「若不生者不取正覚」という言葉を聞くたびに私自身、味あわせていただくことがあります。
それは、「もしも、生まれさせることができないようならば、私はさとりを開かない」とは言い換えますと、
「あなたをすくえないなら、わたしはさとりを開かない」と、わたしへの救いが先立っていることです。
阿弥陀さまは、「自分が仏となって、わたしをすくう」のではなく、「わたしをすくうために仏となる」という、私のための誓いであることを知らされます。
庄松さんは、「コンニャク」という言葉一つから「若不生者」の尊さをよろこばれました。
きっと、阿弥陀さまの御心を忘れることなく、親に抱かれている安心感を、いつも感じておられたのでしょう。
「若不生者不取正覚」という言葉に感じる「決して見捨てない阿弥陀さまの御心」をともに楽しく聞かせていただけたらいいなぁと思います。
また、その誓いは「死」という、決して避けられず、いつ私に襲いかかってくるか分からない事態であっても、私の支えとなることを、次の話で強く思わされました。
「おらが本願つくりたでなし。助けてやるものを持っているでなし。何も聞かせるようなものはない。おらやお前を生まれさせずば正覚取らぬと誓いをたてた佛が今ここに正覚取りてあるじゃないか。これでも不足なのか」
木田郡東植田村のある同行が病気で、医師にも諦められてしまった時のお話です。
阿弥陀さまのすくいをよろこばれた方でしたが、いざ、自分がいのちを終えていく時になると、信心はどこへ行ってしまったのか。「これではどうしようどうしよう」と不安でいっぱいになりました。
そこで、お浄土参りの話を聞こうと思い、庄松さんを招きました。しかし、庄松さんは、病人のそばへ行かず仏壇に御礼をはじめたので、「御同行、御内仏に御礼たのんだのでない。病人に聴かせてもらわんため、病人に早くきかせてくれ」と言うと、庄松さんは「おらが本願つくりたでなし。助けてやるものを持っているでなし。何も聴かせるようなものはない。おらやお前を生まれさせずば正覚取らぬと誓いをたてた佛が今ここに正覚取りてあるじゃないか。これでも不足なのか」と言われました。この言葉が病人に届き、「ああ、そうであったか」と、非常によろこばれたそうです。
生きている限り、死を避けることができません。あまり世間では死後の世界について考えませんが、本当は、最も大切なことではないでしょうか。
「死んだらおしまい」という想いで日々を過ごすことは悲しく感じます。
浄土真宗というみ教えを聞かせていただく程に、私の人生は「死んだらおしまい」ではなく、「浄土というさとりの世界を目指す意味のある人生」だったのだと知らされていきます。
私にはどうすることもできない。自分のはからいで死を解決することはできない。
そのような私であると知りぬいた上で、「おらやお前を生まれさせずば正覚取らぬ」と誓われたのが阿弥陀さまであります。
阿弥陀さまの誓いを心の支えとし、阿弥陀さまの御心をきかせていただく、さとりの世界を目指す意味のある人生をともに送っていきませんか?
きっと、庄松さんのように明るい人生だと思いますよ(⌒▽⌒)