
お坊さんの仕事は話すことではなく聞くことだと思っているのですが、それができない時があります。
去年のお盆参りもそうでした。
なぜ、人の話を聞けなかったのか?
その答えはたった一つでした。
お坊さんとして活動していて抵抗があること
僕は高校生の頃からお坊さんとして活動し始めました。
その頃から、御門徒さまには本当に良くしていただいて、逆に困ったことがあれば御門徒さまに相談することも多かったです。
しかし、一つだけ言い出せないことがありました。
「トイレを貸してください」
普通に言ったら貸してくれるのはわかっているのですが、お勤めして法話して御門徒さまのお話を聞かせていただくためにお坊さんとしてお参りに行っています。
そのためにお坊さんの服装をしております。
私服の時のように自由にするのには抵抗があるんです。
ある日、トイレの我慢の限界がきたお盆参りがありました。
トイレの我慢の限界を超えたお盆参り
ある日、お盆参り中にトイレに行きたくなったことがありました。
コンビニに寄ろうと思えば寄れたのですが、お参りは残り3軒。
しかも、その3軒の家は並んでいたので、スグに終わる予定でした。
ですので、コンビニには寄らずにそのまま3件並んでいる家の1軒目に入りました。
いつものようにお参りをした後に、トイレ行きたいなぁと思いつつ、笑顔でお話を聞いていると、こう言われました。
「コーヒーのおかわり持ってくるね」
「いらない」とは言えないので、「ありがとうございます」と言いながら、おかわりのコーヒーを急いで飲んで、いつもよりゆっくりお話を聞けないまま家を出ました。
よくよく考えてみますと、自分が我慢している時には、人様のご厚意すら気付けなくなってしまっているんですね。
そして2軒目、本当は誰にも言えないのですが、お経を読むスピードが少しだけ早くなりました。
いつもなら付いてきやすいスピードを意識するのですが、その時だけはお経を読む御門徒様よりも、僕のトイレの我慢を優先してしまいました。
出してくれたお茶を一口だけ口に付けて、急いで外に出ました。
こちらはかまっているのではなく、かまってくれているにも関わらず、そのことに気づくことはできませんでした。
そして3軒目、2軒目の家から3軒目の家に移動するのすらしんどい状況です。
御門徒さまへの挨拶も、顔が引きつっており、お経を読む時もお経本を渡すのを忘れてしまいました。
早口言葉のようなスピードでお経を読み、後ろを向いたらこう言われました。
「しんどくない?」
ヤバイって思いつつ、心配してくれているような顔で仰っていただけたので、スッと言葉が出ました。
「トイレ貸してください」
すると少しも嫌な顔をせずにトイレを貸してくれ、その後に、一緒にお勤めをさせていただきました。
僕自身、相手の優しさがあるのに、勝手に意固地になっている自分自身の恥ずかしさを思い知らされました。
今までの人生で何度も何度も意固地になっている自分自身のすがたを思い知らされてきました。
それでも反省せずに、相手の優しさに気付こうとすらしていない。
そうして人に心配をかけ、人に迷惑をかけて生きてしまっています。
阿弥陀さまという仏さまは、意固地になるどころか、仏法に反逆して、反対方向に向かっていく私たちをそのまま救ってくださる仏さまでありました。
どんなに私が反対方向に向かっていっても、
「お前だけは見捨てないぞ!」
「逃げよう逃げようとするお前だからこそ、私は放っておかないぞ!」
と、私とご一緒であります。
トイレ我慢の限界を超えたある一日の出来事を通して、また阿弥陀さまのお救いを味わわせていただきました。