
「お坊さんの法話」って、
どのようなイメージでしょうか?
「むずかしいお話」
「おもしろくないお話」
そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。
話を聞くことや、
長い文章を読むことに、
疲れを感じる方もおられるでしょう。
ですので、
今ブログでは、
「一口法話」として、
主観的な文章を書いていきます。
みなさまといっしょに、
「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」
そう思えたら素敵だなぁと思います。
合掌
宗教生活ってどんな生活?
みなさまは、信仰を中心としている生活に、どのようなイメージをお持ちでしょうか?
「宗教臭い」とか「洗脳」という言葉をよく耳にします。
あるいは、
「衣食住の役に立たない宗教生活なんて意味がないじゃん!」
という気持ちを感じたり、言葉を聞いたことがあります。
特に、現代では新しい宗教が多く誕生しており、新宗教による被害者も多く、被害者の会を作ったり、批判している方々も多く見受けられます。
生活を犠牲にしてまで熱心に勧誘したり、財物を捧げているすがたを見ると、「宗教臭い」、「洗脳」といったイメージが生まれて当然のように感じてしまいます。
「あの人は本当に大丈夫なんだろうか・・・」
そのような疑問を感じたことがある方もおられるのではないでしょうか?
新しい宗教を信仰し、身内や知人を中心に勧誘しているすがたの是非については、私は何も言えません。
ただ、勧誘や集金が本当に、「私の生きる道としての宗教」となっているか、立ち止まって考えていただきたいです。
宗教は、決して、私たちの生活を脅かすものではないはずです。
宗教は、
「私の人生観」を見つめなおさせてくれるものでなければなりません。
他人を巻き込むことがメインではありません。
お金を寄付することで利益があるものでもありません。
宗教を通して、本当の自分のすがたを省みさせていただくとともに、そのような私を決して見捨てない方がおられたことを聞かせていただきます。
そのような私のよろこびが、他者とのよろこびに繋がっていくのであり、他者を強引に巻き込み、生活を窮屈にするものではありません。
浄土真宗本願寺派の加茂仰順和上は、
宗教生活とは、安心が生活化されきったすがたに名づけるのです。具体的に申しますと、安心に生かされる人々の道徳的大悲行の実践がそれです。いわゆる仁義礼智信の行いはみなこれ仏行ですから、純真にこのような道徳的生活をすることこそが、実に宗教生活です。
『安心座談』 157ページ
と、よろこびの中での道徳的実践、道徳的生活こそが宗教的生活であることを示されております。
決して、他者に強制するものではありません。
「こんなにいい教えに出会えたらから、ともによろこんでいこうよ」
という、同じ目線でのよろこび合いこそが宗教生活です。
また、「宗教臭い」ものでもありません。
普段の生活を、道徳的立場からも大切にしつつ、敬いの心で他者と接していく大切さを宗教の中でも浄土真宗は教えてくれます。
日頃の生活の中でくじけそうな時、本当の支えとなる存在がおられることを教えてくれます。
阿弥陀さまのすくいの中で、すくいに感謝しつつ、日頃の生活を頑張らせていただきます。
加茂仰順和上は、また、
と述べられております。
浄土真宗のみ教えをいただく生活は、前向きに明るく歩む生活です!
阿弥陀さまのお慈悲の御心のままに、社会の中で日頃の生活を頑張りつつ、恵まれている現実をよろこばせていただく生活を送らせていただきましょう。
生活を犠牲にするのではなく、
「宗教があるから生活の中で支えとなるんだね」と言えるほどの阿弥陀さまの御心を恵まれている私たちで良かったですね。
宗教生活は、普段の生活をより充実させてくれるものでしたね。
大いなる阿弥陀さまの御恩のもとに、感恩の生活をさせていただける幸せを感じ合いたいですね。