「末代無智章」私たちを救うというお誓いの中で念仏称える人生を歩む

『御文章』を通して阿弥陀如来の救いを味わうことができます

浄土真宗のお坊さんは読経や法話の後に『御文章』というお手紙を拝読いたします。

『御文章』は浄土真宗本願寺派八代目宗主の蓮如上人によって書かれております。

教えの内容を簡潔にまとめてくださっているお手紙ですので、読みやすく味わいやすいと思われます。

この『御文章』の中でも、今ページでは「末代無智章」について考えていきます。

「末代無智章」の本文を通してお救いを味わいます

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。

これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。

かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。

現代語訳によってわかりやすく教えの内容を味わいましょう

末代の世であり、まことの智慧がなく、煩悩にふりまわされている私たちは、ただ阿弥陀さまをたよりとさせていただくべきであります。

阿弥陀さま以外の神や仏に惑わされずに、ただひたすら阿弥陀さまにおまかせする方々は、たとえどれほど深く重い罪を背負っていたとしても、阿弥陀さまはお救いくださります。

この意はそのまま、第十八願に誓われた念仏往生のおこころなのであります。

だから、このように信心が定まったならば、休んでいても働いていても、どのような生活を送っていたとしても、つねにお念仏を申させていただく生涯を送らせていただきましょう。

まことに尊く、もったいないことであります。

私たちを育て上げ救いとるまでお誓いくださったのが阿弥陀如来

この『御文章』は、「末代無智の・・・」とはじまりますので「末代無智章」と親しまれております。

内容を二つに分けてみますと、冒頭から「これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり」までは「阿弥陀さまによるお救い」について説かれており、それ以降は「阿弥陀さまのお救いを賜った後の私たちの生活」について示されております。

ゆえに前半部分は「第十八の念仏往生の誓願のこころ」が中核となっております。

第十八の念仏往生の誓願」と言いますのは、あらゆるいのちをすくい取るために阿弥陀さまが建てられた48の願いの中でも、最も御本意となる18番目の願いのことであります。

そこでは、次のように誓われております。

たとひわれ仏を得たらんに、十方衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ずれば、正覚をとらじ。ただ五逆と非謗正法とをば除く

ここで「十方衆生」といわれているのは「生きとし生けるすべてのいのち」ということであり、今回の『御文章』では「末代無知の在家止住の男女たらんともがら」のことであります。

また、すべてのいのちを「必ず救う」という阿弥陀さまの仰せのままにただお任せするすがたを、「末代無知章」には「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば」と示されております。

そして、仰せのままに信順する信心の人が救われていくことを、「たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり」と示されております。

したがって、「すべてのいのちを、誓願を信じ、念仏する人に育て上げて救い取る」という阿弥陀さまの第十八願のお心が前半部分で示されていることがわかります。

救いが定まったならお念仏を称える人生を歩ませていただきましょう

「末代無智章」では第十八願の心について示されただけではなく、続けて後半部分では、「かくのごとく決定してのうえは、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」と示されております。

決して、信心が定まり、救いが定まったらすべてが終わりではないことを知らされます。

お念仏を称えるという行為が役立って救われるのではありませんが、「一生涯、お念仏を称えさせていただく生涯を送りましょう」という蓮如上人のお言葉に、決して見捨てることのない阿弥陀如来への感謝の想いからお念仏称える人生の尊さを知らされます。

また、「救われたからもう何もしない」という風にただ怠ける人生が念仏者の人生ではないんだと受け取らせていただくところであります。

浄土真宗のお勉強ができる尊い本を紹介します