
「お坊さんの法話」って、
どのようなイメージでしょうか?
「むずかしいお話」
「おもしろくないお話」
そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。
話を聞くことや、
長い文章を読むことに、
疲れを感じる方もおられるでしょう。
ですので、
今ブログでは、
「一口法話」として、
主観的な文章を書いていきます。
みなさまといっしょに、
「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」
そう思えたら素敵だなぁと思います。
合掌
誰かを助けたいという気持ちが人を動かします
東日本大震災や熊本震災の時、震災後すぐにボランティアや支援物資の情報、そして映像としてニュースで伝わってきました。
「放っておけない!!」
「なんとかしなくちゃ!!」
そのような人間の美しい心がテレビ画面からも伝わってきました。
人間関係を円満させるための面倒くささや、チーム内での裏切りなどが、記憶に残りやすいために目立ちますが、人の助け合いに敏感になれば、人の優しい気持ちに気付かされることも多いです。
気付いたら、私自身、人の優しさに生かされてきたという現実を知らされます。
しかし、「人のため」に行動している時、相手が自分の思った通りの反応をしてくれなかったら、「なんで?」という気持ちになることもあります。
「人のため」だと思っていたら、
「自己満足」だったということがないとも言えません。
そのような状況に陥ることがある生活の中で、浄土真宗本願寺派の大谷光真前御門主は三つの大切なことを示されております。
相手を十分に理解すること。困っている事情をよく知り、できるだけ自分のこととして受け止める。
相手に援助の手を差し伸べたところで、相手が自分の思いどおりにならない場合や、相手が自分の期待したとおりに受け取ってくれない場合がある、と達観しておくこと。
自分自身も自分の思っているとおりの生き方ができない、と気づくこと。
『人生は価値ある一瞬』79、80ページより引用
そして、この項に、
{あくまでも、「私はあなたがたのことを十分に理解できなくて申し訳ありません」という前提で、相手の苦しみをできるだけ自分のこととして受け止める。}と述べられております。
大谷光真前御門主の言葉全体から、相手を中心に考えるという姿勢が、私は伝わってきます。
「誰かを助けたい」
その気持ちはとても大切だと思いますが、「相手の都合よりも、私の気持ち」が大きくなっていないか常に考えなくてはなりません。
決して、相手の都合や、相手の気持ちを無視することだけはないように、日頃の生活から気をつけたいものです。
僧侶として活動していると、人の寂しさに触れることが多くあります。
ただ受け止めることを大切にしているのですが、その時に気付かされることがあります。
それは、「相手の立場に立つ」なんて絶対にできないこと。
相手のことを「わかるわかる」という気持ちは、相手を傷つけることがあります。
相手の立場に立てない中で、相手の気持ちを大切に、ただ受け止める実践を、お互いに大切にしていきましょう。