
実は、お仏壇の飾り方など、仏事に関することは土地特有のルールが出来上がったりしちゃうことがあります。
特に、そのようなルールや迷信が生じやすいのがお葬式です。
ただし、それは一概に悪いことではありません。
宗派によって呼び名や決まり事が変化することがあり、お寺とあまり関わりのない方にとってややこしくしている現実もあります。
また、土地によってルールが自然とできてしまい、長年にわたって続けられてきたことは簡単には変えられないので、致し方ないことであります。
でも、土地特有の仕来りであったと知っているのと知らないのでは大きな違いであります。
ですので、今ページでは、浄土真宗の葬送儀礼では本当は使わない言葉などを紹介していきたく思います。
「葬儀」と「告別式」
「葬儀」と「告別式」という言葉は混用されやすいですが、実は意味合いは異なっております。
浄土真宗での「葬儀」とは、故人も遺された方も、ともに阿弥陀さまに等しく摂め取られていることを想わせていただき、阿弥陀さまへの御恩を感謝させていただく場です。
また、「阿弥陀さまのお浄土を拠り所とする人生を歩ませていただく」という法の御縁に出遇わせていただく尊い儀式です。
そして「告別式」とは、「故人に別れを告げる挨拶」という世俗的な儀礼であり、この言葉には「法縁に出遇わせていただく」という要素はありません。
葬儀が「単なるお別れ会」のようになってしまったら、故人に対して申し訳ない気持ちがします。
愛する方との別れには様々な感情が湧いてきます。
死を受け入れられない気持ち・・・
この言葉を伝えたかったという後悔の気持ち・・・
元気だった故人を思い出して、よりつらくなる気持ち・・・
その気持ちを大切に、「故人の死を無駄にしないため」に意義のある葬儀としたいものです。そのためにも、葬儀という法縁を通して「かならずたすける」という阿弥陀さまの御心に出遇わせていただくことが大切であります。
「あなたの死を通して、阿弥陀さまの御心を知らせていただきました」
「世間では、肉体が滅びたら別れと言いますが、阿弥陀さまのおはたらきによって、仏となり、南無阿弥陀仏のご縁となるために還らせていただくんですね」
亡き方との別れを通して、亡き方も私もともに阿弥陀さまに願われているいのちであったと知らせていただく法縁が葬儀です。
決して「告別式」という言葉の意味合いだけに終わるものではありません。
死を無駄にしないためにも、自分の死も見つめさせていただき、故人のことをたくさん思い出させていただき、そのすべてを包み込む大慈大悲の阿弥陀さまがおられることを、ともに想わせていただきましょう。
友引について
葬儀の日程を決める際、六曜の友引を避ける風潮があるようです。
確かに、文字だけ見れば「友を引く」と連想されがちですもんね。
でも、悲しくないですか?
故人の亡くなった瞬間、「まだ死なないで」という想いが湧いてくることもあります。
しかし、「友引だから他の日にする」というのは、故人を遠い世界の人にしてしまっていますよね。故人の立場から考えると、とても残酷なことをしているように私は感じます。
実は、葬儀の日程で「友引だから避ける」ということはありません。
それはいわゆる迷信であります。
ちなみに、六曜の「友引」とは、明治初期までは「共引」といわれておりました。「良いも悪いも無い日」という意味です。つまり、人間が一喜一憂してしまう占いの一環のようなものですので、気にされなくて結構です。
そのような迷信に惑わされず、葬儀を通して、阿弥陀さまのご縁に出遇わせていただきましょう。
「友を引く」のではなく、「友を引き、導いてくださる阿弥陀さま」がおられることを、葬儀を通して知らせていただきましょう。
・火葬場から帰る時はルートを変える
・出棺する際に、棺をまわす
・出棺する際に、故人の茶碗を割る
これらは、すべて故人が帰ってこないようにするためらしいです。故人の気持ちを中心にしたら、こんな迷信は生まれなかったのではないかと思われます。
私なんかは、「死人は追い出せ!」と言っているようで悲しく感じます。
清め塩について
清め塩は神道が由来であると考えられています。
神道では死を「ケガレ」(穢れ)と考えますから、それを浄化する意味で清め塩を使われます。でも、数日前まで一緒に笑って、言葉を交わした故人ですよ。
亡くなった瞬間に「ケガレ」とするのは悲しく感じますね。
それよりも、亡くなられた姿が私にいのちの儚さを教えてくれていると受け取りたいものです。
私のいのちは「ケガレ」になるいのちではなく、「仏」と成らさせていただくいのちであります。
その尊さに目を向けさせていただく人生を送らせていただきましょう。