
「お坊さんの法話」って、
どのようなイメージでしょうか?
「むずかしいお話」
「おもしろくないお話」
そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。
話を聞くことや、
長い文章を読むことに、
疲れを感じる方もおられるでしょう。
ですので、
今ブログでは、
「一口法話」として、
主観的な文章を書いていきます。
みなさまといっしょに、
「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」
そう思えたら素敵だなぁと思います。
合掌
みなさまにとって、いのちを終えることは何を意味するでしょうか?
いのちを終えることに対して・・・
「別れ」を連想される方がいらっしゃるかも知れません。
「滅び」を連想される方がいらっしゃるかも知れません。
「敗北」を連想される方がいらっしゃるかも知れません。
挙げていけばキリがないほど、様々なイメージがあるかと思われます。
ただ、世間で言われるイメージはマイナス方向のものが多いように感じます。
実際に、「死」のイメージに対してアンケートを取っている論文を見てみると、「怖い」、「さみしい」、「悲しい」といった結果になっています。
「死のイメージ」というよりも、「死に対する気持ち」のような解答ですよね。
そうなって当然だと思います。
だって、普段の生活の中で「死」に触れることはあまりありませんもん。
いかに「生きるべきか」ということは、よく触れますけどね。
世間では「死」を避けます。
かならず誰もが経験するのに避けます。
不思議ですよね。
「もしも宝くじが当たったならば」とか、「もしも魔法が使えたら」とか、実際にほぼ起こることがないことは、誰もがよろこんで話し合います。
でも、誰もが経験する死の話は禁句のように感じることもあります。
本当は、かならず経験する死の問題を解決した上で、生について考えていくべきでしょうね。
その解決をすることで、人生がより充実したものになるのではないでしょうか。
「死の解決」と「生の解決」は別物ではないですよ。
そうしなければ、人生は、ゴールがわからないのに走り続けるマラソンと同じですし。
自分の愛する人を亡くした時も、悲しみだけで終わってしまう可能性も大きいですよね。
私は、浄土真宗に出遇ってから、「死はむなしい別れじゃないんだ!」と実感させていただきました。
悲しみの感情や、さみしさはもちろんありますが、それだけじゃない。
「仏としてのいのちをいただくって、決してマイナスな感情ではないんだ!」ということを、浄土真宗は教えてくれました。
お浄土に生まれて仏のいのちを賜ってからのよろこびの掟があります
浄土真宗の開祖、親鸞聖人は、浄土真宗というみ教えについて、次のようなことを述べられております。
いのちを終えたら仏さまの国(浄土)に生まれると思われている方が多いかもしれませんが、浄土真宗では、その後が大切なんです。
「この世界に還らせていただく」
往って終わりではありません。還らせていただくところまで、阿弥陀さまによって誓われています。
もしも、往って終わりならば、亡くなった方にこう言います。
「そっちの世界で幸せになってね、ご冥福をお祈りします。」
浄土真宗では、このような言葉は言いません。
「これからも宜しくお願いします」が、浄土真宗です。
それでは、どのようなすがたで還ってくるのでしょうか?
私、有難いことに、僧侶として死の縁に触れた様々な方のお話を聞かせていただきますが、誰一人として、「亡くなった方がチャイムを鳴らして帰ってきた」というお話を聞いたことがありません。
そんなことがあったら、逆にややこしいですよね。笑
それでは、どのようなすがたとなって還って来られるのでしょうか。
それは、「南無阿弥陀仏」のご縁です。
なかなか仏壇に向かおうともせず、阿弥陀さまの御心を聞こうとすらしない私に、「南無阿弥陀仏」と聞かせ、称えさせるご縁となって還ってくるのだと、私は味わっております。
亡くなっていったあの方を思い出しつつ、仏壇に向かい、手を合わせてお念仏を称えるすがたそのものが、亡き方が作ってくれたご縁ですよね。
そんな時に、
「ただ別れて終わりじゃなかったんやね。あなたが縁となって、あなたが阿弥陀さまに導かれて仏としてのいのちをいただいたように、その阿弥陀さまのおはたらきは、私に届いていると、あなたのおかげで聞かせていただきました。」
そのように感じられる生活が、「還るところまで誓われた阿弥陀さまの御心」を、より温かく感じ、日々の生活を前向きに過ごさせていただけるのではないでしょうか。
その仏に成らさせていただくというゴールの与えられた人生を、阿弥陀さまへの感謝のうちに、ともに励ましていただきましょう。