
「お坊さんの法話」って、
どのようなイメージでしょうか?
「むずかしいお話」
「おもしろくないお話」
そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。
話を聞くことや、
長い文章を読むことに、
疲れを感じる方もおられるでしょう。
ですので、
今ブログでは、
「一口法話」として、
主観的な文章を書いていきます。
みなさまといっしょに、
「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」
そう思えたら素敵だなぁと思います。
合掌
みなさまは、「うつくしい」という言葉から何を想像されるでしょうか?
うつくしい方を想像される方がいらっしゃるかも知れません。
うつくしい物を想像される方がいらっしゃるかも知れません。
人の助けあう姿を想像される方がいらっしゃるかも知れません。
きっと、挙げていけばキリがないですね。
しかし、どの「うつくしさ」も、いつまでも続くものではありませんね。
その時、その瞬間、うつくしいと感じられても、いずれ、儚く無くなってしまうものです。
「無くなってしまうからこそ、よりうつくしく感じるんだ」
そのような意見もあるかも知れません。
しかし本当に、無くなってしまうものを「うつくしい」とずっと思えるでしょうか。
と言いますのも、無くなってしまうものを「うつくしい」と思うのもアリとは思いますが、うつくしくなくなってしまった時に、期待を裏切られた悲しさを感じることがあります。
そのようなものを「うつくしい」と言い切りたくないと私は思ってしまいます。
やっぱり、「うつくしい」ものは、ずっと「うつくしい」と思いたいです。
言い方を変えますと、
いずれ色あせるものは、ピークを境にすでに「うつくしさ」が失われている時です。それでも、「うつくしい」と言うこと自体、私は変に感じます。
前フリが長くなりすぎました・・・
浄土真宗というみ教えは、いつまでも無くなることのない「うつくしさ」を与えてくれ、教えてくれるみ教えです。
浄土真宗本願寺派の加茂仰順和上は次のような言葉を残されました。
第十八願の行者は、願力の不思議一つをまうけにいたしますれば、さらに往生にさわりはありません。しかし、体には必ず衣類をまとうて、うつくしい人となるように、信心にも、称名相続の衣類を着て、人をめぐみ、まことの道を履むという帯もしめ、世の中安穏なれ、仏法ひろまれかしと思うて、まことに法義をよろこびます者こそ、よく心得えられた信心の行人であり、うつくしい念仏の行者ともいうことが出来ます。
(『安心座談』74、75頁)
私は、この言葉を初めて味わった時に感動しました。
決していただけるはずのない、「南無阿弥陀仏」という衣を、阿弥陀さまに着させていただいている現実を、当たり前のように歩んでいるのが私たちの人生だと、気づかせていただきました。
そうですよね〜〜
衣や、生きているうちに出来上がる看板は、いずれなくなるものですが、「南無阿弥陀仏」だけは無くなることがありませんもんね。
また、無くならないだけではありません。
「南無阿弥陀仏」をいただいた人生は、他者とともによろこんでいこうという心を育んでくれます
「南無阿弥陀仏」をいただく「一人でも多くの方に伝えていきたい」という心を育んでくれます。
みんなと「うつくしさ」の勝負をするのではなく、「一緒にうつくしい人間になっていこうよ」という心を育んでくれます。
そのすがたはうつくしいですし、その心もうつくしく感じます。
これこそ、本当に色あせないうつくしさではないでしょうか。
そんな「南無阿弥陀仏」を、ともにいただける人生を、明るく歩んでいきたいですね。