
「お坊さんの法話」って、
どのようなイメージでしょうか?
「むずかしいお話」
「おもしろくないお話」
そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。
話を聞くことや、
長い文章を読むことに、
疲れを感じる方もおられるでしょう。
ですので、
今ブログでは、
「一口法話」として、
主観的な文章を書いていきます。
みなさまといっしょに、
「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」
そう思えたら素敵だなぁと思います。
合掌
往生について努力は必要ありませんが、生活は別の話であります!
「浄土真宗は何もしなくてもいいもんな」
そんな言葉を、お参り中に聞くことがあります。
しかし、そんなことを親鸞聖人は仰っておりません。
何もしなくても救われるのでもありません。
「何もしなくていい」は阿弥陀さまから私への言葉であって、私が怠けていい教えではありません。
また、日頃の生活を怠けていいというみ教えではありません!
確かに、親鸞聖人は「自力無効」(人のはからい心は何の役にも立たない)という立場に立っておりますので、自力の心は必要ありませんし、私の往生に関して何の役にも立ちません。
また、「自力無効」の心はそのまま「他力全託」(ただ、阿弥陀さまにお任せするばかり)の心でもあります。
つまり、往生に対して何の役にも立たない私を、決して見捨てない阿弥陀さまがおられるという、悲しみと喜びの心が、信心には具わっております。
それでは、普段の生活の中での、私たちの努力は否定されるべきものなのでしょうか?
親鸞聖人は自力の心を様々な言葉で示されておりますが、その一つに「信罪福心」とあります。
自分の行動に罪福を見ていこうとする心です。
自らの行いに対して罪福を見ていき、善悪を判断し、それに従って自分の態度を決めていこうとする心のことです。
その心も大切ですよね。
「困っている人を助けたい」という心も、この信罪福心です。
私は、自力の心だからといって一概には否定できないもののように思います。
ただ、親鸞聖人が示されているのは、「その心が仏の道となるか否か」です。
人を助けたから仏に成るということはありません。
自分の心が作り出した善によって仏に成る教えではありません。
それでは、仏への道とは、どのような生活をしていく道なのでしょうか。
親鸞聖人は、仏への道は、仏の方から開かれているものであることを示されました。
私の方から罪福の心をもって、たくさん努力して仏になるのではなく、阿弥陀さまの喚び声を聞かせていただくままが、仏への道を歩ませていただいているという事実を示されました。
それは、完全に「自力無効」の道であります。
たとえば、「南無阿弥陀仏」のお念仏さえも、自分の手柄として願い求めるならば、決して仏になることはできません。
ただ、阿弥陀さまのすくいのおはたらきに、素直に随うばかりです。
そのような意味で、仏さまの願いのままを受け入れるのではなく、私の考える善を肯定する「信罪福心」とは否定されるべきものです。
しかし、普段の生活の中で、「努力しなくていい」「善いことをしなくていい」「頑張らなくていい」というのは、全く別の話であります。
阿弥陀さまにお任せするばかりと知らされた上での、世間での道徳的な行動は、より輝きを放つものだと思います。
自分を励まし続けて行う善ではなく、阿弥陀さまという絶対の救済者がいるから大丈夫。
その心が、普段の生活を明るくさせてくれ、「ともにお念仏の道を歩もうよ」と、他者とともによろこび合える心が恵まれてくるのではないでしょうか。
浄土真宗ってとても開放的な教えですからね。
ともに「自力無効」の私たちでよかったですよね。
だって、「他力全託」とまで言い切れるほどの阿弥陀さまの大悲を確かさを知らされるますもんね。
そんな阿弥陀さまの御心を支えに、目の前の課題に目一杯ぶつかっていこうじゃありませんか。
人生、いっぱい頑張って、いっぱい笑って、いっぱい悲しんで、「みんなでよろこび合える阿弥陀さまがいてよかったね」そう思える人生を、いきいきと過ごさせていただきましょう。