
【明日の保証はない】命の終える順番は決まっていません
浄土真宗とは、『仏説無量寿経』という経典を根本とされている教えです。
そこには、阿弥陀さまのお救いが説かれております。
そして、阿弥陀さまが放っておけなかった私のすがたが説かれております。
その内容は、2500年前に説かれたと思えないほど今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。
生死の常の道、うたたあひ嗣ぎて立つ。あるいは父、子に哭し、あるいは子、父に哭す。兄弟・夫婦たがひにあひ哭泣す。顛倒上下することは、無常の根本なり。みなまさに過ぎ去るべく、つねに保つべからず。
〔道理を〕教語し開導すれども、これを信ずるものは少なし。ここをもつて生死流転し、休止することあることなし。
生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常であります。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあいます。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともあります。これが無常の道理なのです。すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできません。
この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのであります。
「私はまだ若いから死なないよ」という言葉の失礼さ
本願寺派八代目宗主の蓮如上人の書かれた『白骨の章』というお手紙があります。
その中で今回の言葉と合致する無常を知らされるお言葉を残されております。
自分が先にいのちを終えていくのか、相手が先に終えていくのかわかりません。
今日、いのちを終えていくのか、長生きできるのかすらわかりません。
そのような無常の根本を知らされても、人生の中で実感しても、「まだ私は若いから長生きします」、「まだ私は元気だから」といった想いで生きております。
確かに、若いほどいのちを終える可能性は低いですし、「元気」を実感して、毎日を頑張っている時に死ぬはずはないと思いがちです。
それどころか、「死ぬ」ことなんて考える場合じゃありません。
でも、私は、「自分はまだ死なないから」と平然と言っているのを聞く時に悲しい気持ちになることがあります。
そのような言葉を聞くたびに、「昨日、死にたくないのに死んでいった方の気持ちを大切にしないといけない」と考えてしまいます。
ましてや、東日本大震災をはじめとして、私たちは、人のいのちの儚さを知らされるご縁に遭遇してきました。
たくさんの悲しさや、どうにもならない想いを感じてきました。
その私たちが、平然と「私はまだ死なない」と考えるのは、人の死を無駄にしていることであり、失礼なことであるように思われます。
仏説無量寿経のお示しを「私の人生の真実」と捉え生きましょう
『仏説無量寿経』には次のように説かれております。
どんなに人生の儚さを説いても誰も信じようとしないのは、今も昔も同じことであります。
だから、いのちを大切にする心が養われません。
生まれてきた意味を真剣に問うことができません。
そうして迷い続けるよりも、「人生の行方をはっきり知らされ、そこに向かって歩んでいく人生」を送ってみませんか?
それを教えてくれるのが、浄土真宗というみ教えであります。