
普放無量無辺光
無礙無対光炎王
清浄歓喜智慧光
不断難思無称光
超日月光照塵刹
一切群生蒙光照
あまねく無量・無辺光、無礙・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。
阿弥陀さまは、無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光と讃えられる光明を放って、すべての国々を照らし、すべての衆生はその光明に照らされるのです。
阿弥陀さまとは、「あらゆるいのちを救いたい」という願いが完成されたままに私たちにはたらき通しの仏さまでありました。
時に「南無阿弥陀仏」の声となって私達に存在を知らせてくださります。
しかし、「南無阿弥陀仏」が聞こえる場だけが阿弥陀さまのおられる場ではありません。
煩悩に覆われている私たちには、目で見ることも感じることもできませんが、ひかりの仏さまとなっていつも私たちを照らし続けておられます。
その阿弥陀さまのひかりのおはたらきを「光明」と言います。
光明となって私たちを照らしおはたらき通しの阿弥陀さま
阿弥陀さまの光明について、浄土真宗の根本となる経典の『仏説無量寿経』では、次のように説かれてあります。
無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。
阿弥陀さまの光明は、ご本願は『重誓偈』に「超世願」と表現されておりますように、いまだかつてない程すぐれたものであって、あります。それと同じように、阿弥陀さまの光明のおはたらきも、諸仏(他のあらゆる仏さま)の光明に超えすぐれております。
そのように、阿弥陀さまの光明は、他のどんな仏さまの光明とも比較できないほど優れていることを説かれた後に、その理由とも考えられる光明の種類について説かれております。
すべての意味については最後に説明致します。
ここでは、十二種類の仏さまの名前として説かれていますよね。
しかし、親鸞聖人の示された「正信念仏偈」では、
と、光明のはたらきを十二の面から示されております。
つまり親鸞聖人は、『仏説無量寿経』に説かれている十二の仏さまの光明ではなく、阿弥陀さまの功徳のはたらきを十二種類の光明で示し讃えられていることがわかります。
『仏説無量寿経』では、このように十二種類の名により阿弥陀さまの徳をほめ讃えられた後、
それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三塗勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし。寿終りての後に、みな解脱を蒙る。
この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って、身も心も和らぐのである。よろこびに満ちあふれて善い心が生まれる。もしも地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界でこの光明に照らされるならば、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはない。命を終えて後に迷いを離れることができるのである。
と、阿弥陀さまの光明に照らされるものは、煩悩が消え去り、身も心もやわらぎ、ふたたび苦しむことはなく、いのちを終える時にさとりを得ると説かれております。
阿弥陀さまのおはたらきに出遇わせていただいたならば、自身の煩悩の深さに気付かされ、そのような私を「放っておかない」という阿弥陀さまの御心を知らされる人生を歩みます。
そして、いのちを終えた時には仏としてのいのちを賜り、すべてのいのちを救いとるために活動させていただけるのです。
そのような仏のいのちを私たちに与えようと、光明となって、いつも私たちにはたらき続けておられる光の仏さまが阿弥陀さまであります。
親鸞聖人の著された『尊号真像銘文』には、
と、阿弥陀さまのことを、「光明」「光如来」と示されております。
すべての世界を欠目なく照らし続け、届かない場所はない光そのものが仏さまであると受け取らせていただくところに、親鸞聖人の絶対の安心感を感じます。
光があるのが当たり前に生活している私たちは、光の恵みを感じることはあまり無いのかも知れません。
しかし、光がなければ何も見えませんし、温かさも感じることはないでしょう。
つまり、光がなければ生きていくことはできません。
そのような光の恵みを受けて私のいのちが存在しているように、私が感じようが感じまいが照らし続けておられるのが阿弥陀さまであります。
名号や絵像といった実体はなくとも、私がいる場が阿弥陀さまのはたらきの場であり、その場は決して限定されるものではありません。
親鸞聖人が阿弥陀さまを光と讃えられた時、どのような心境だったのでしょうか。
私を包み、私の存在を知らせ、私そのものを包み込む光のような阿弥陀さまの温かさをどのように感じ取っていたのでしょうか。

理論では考えられないほどの、阿弥陀さまの恵みを、今、当たり前のようにいただいている。
光のはたらきからも、そう思わせていただける人生を送れたら素敵だなと思います。
ここからは、「正信念仏偈」において讃えられている十二種類の光それぞれの意味を味わっていきたく思います。
「十二光」には、それぞれの文字通りの尊い意味がありました
無量光
無量光とは、無限の量である光であり、時間的に永遠に照らし続ける光であることを意味します。
私たちを、どこまでも、いつまでもすくうためには有量の光では不可能です。量ることすらできない無量の光を表しております。
無辺光
無辺光とは、無量の光をあらゆる世界の際限まで、どこまでも照らす光であることを意味します。
その光が届かない場所がないということは、阿弥陀さまのはたらきの届かない場所はないということであり、今、私のいる場が阿弥陀さまのはたらきの真っ只中であることを意味します。
無碍光
無碍光とは、物に妨げられることがないばかりか、私たちの煩悩にすら妨げられることのない光を意味します。
太陽や月の光でさえ、蓋を閉じれば光が届かないように、遮られることがありますが、阿弥陀さまのおはたらきは遮られることはありません。それは外的な障害だけではなく、私たちの煩悩ですら何の障りにもなりませんので、阿弥陀さまのすくいの絶対性を示された言葉と言えるのではないでしょうか。
無対光
無対光とは、比べられるものがないほどの光を意味します。
この言葉が示しておられるように、阿弥陀さまのおはたらきは、何にも比べることはできないのですから、決して何かにたとえることはできません。それは、光そのものだけを指しておられるのではないように思われます。阿弥陀さまのおはたらきに出遇わせていただいた念仏者のよろこびのすがたそのものも、他のよろこびと比較できるものではないでしょう。決して比較できない阿弥陀さまのおはたらきをいただき、よろこびの心を育ませていただき、お念仏もうさせていただく自身の現実を、宗祖は讃えられたのだと管理人は感じております。
光炎王
光炎王とは、光の勢いが、まるで煙を上げずに燃える炎のように盛んであることをあらわしております。
『浄土和讃』に「仏光照陽最大一 光炎王仏となづけたり」と、阿弥陀さまの光は最も強い光であるとしめされ、それはそのまま光炎王仏、つまり光と炎の王と讃えられております。
清浄光
清浄光とは、阿弥陀さまが因位の法蔵菩薩であられた時に、貪欲(むさぼる心)を離れた時に得られた光であり、私たちの欲望から起こる罪を取り除く清らかな光を意味します。
煩悩の汚れが全く混じっていない清らかな光に照らされて、初めて自身の罪の深さを知らされていきます。そのような阿弥陀さまのおはたらきの中だからこそ、自身の煩悩を恥じつつ、煩悩を制御しつつ生きるべきだと知らされていくのでしょう。
浄土真宗は、「煩悩あってもいい」と私が思うことではありません。それは阿弥陀さまの視点です。阿弥陀さまのおはたらきに出遇わせていただいたならば、自身の煩悩を恥じつつ、制御しつつ生きるべきだと知らされていきます。そのような阿弥陀さまのおはたらきを、宗祖は法蔵菩薩の功績を通して讃えられたのであります。
歓喜光
歓喜光とは、阿弥陀さまが因位の法蔵菩薩であられた時に、瞋恚(怒り腹立つ心)を離れた時に得られた光であり、私たちが表面にも内面にも怒り、嫉み妬む心を取り除く歓喜の光を意味します。
いつも不平不満ばかり言いながら生きている私を決して見捨てないというよろこびの心を与えてくれる阿弥陀さまです。よくよく考えてみますと、不平不満を言い続けている時点で、目の前のことにとらわれています。阿弥陀さまのはたらきは、そのような私の心を包み込み、よろこびの心へと変換くださいます。歓喜とは、表面にも内面にもよろこび溢れるすがたをあらわした言葉ですが、それほどのよろこびを与えてくれる阿弥陀さまのおはたらきに、今、ともに出遇わせていただいている。歓喜光と言われるほどの阿弥陀さまのおはたらきをいただける身であることを讃えずにいられません。
智慧光
智慧光とは、阿弥陀さまが因位の法蔵菩薩であられた時に、愚痴(無痴であり、仏教の真理を知らず、見ない心)を離れた時に得られた光であり、正しいものの捉え方や考え方を与える智慧のはたらきを意味します。
智慧光のおはたらきによって愚痴を離れたならば、南無阿弥陀仏を信じる人生の有難さを実感していくのではないでしょうか。あらゆる物のすがたを見る目を私がいただくことで、私自身のすがたが見えるようになります。自己を見つめさせられることで、阿弥陀さまの救いの確かさも知らされてきます。そうして、阿弥陀さまの大悲に抱かれている温かさのうちに生涯を全うさせていただく。それが、智慧光によって照らされている私のすがたであります。
不断光
不断光とは、一瞬も絶えることなく、決して止まることなく照らし続ける光であることを意味します。
断えることのないはたらきだからこそ、安心を感じるんでしょうね。いつ苦悩が襲ってくるかわからない今を、阿弥陀さまに抱かれている安心の中で生かさせていただく。そのためには、阿弥陀さまは一瞬の休みも油断も許されません。決して断えない不断のはたらきを日々の生活の中に感じていきたいですね。
難思光
難思光とは、決して思いはかることのできない光であることを意味します。
私たちの頭で計り知ることができないだけではありません。阿弥陀さまのおはたらきは、お釈迦さまですらとき尽くせないほどの功徳を具えられております。それは、私たちが思うことは不可能です。「難」という漢字にはそのような意味があります。そのように、不可能な阿弥陀さまのおはたらきが届いている現実を味わわせていただきましょう。
無称光
無称光とは、どのような言葉でもあらわすことのできない阿弥陀さまの光を意味します。
今、十二種類の光の名によって阿弥陀さまのおはたらきを讃えておりますが、本当は言葉では言い尽くせないほどの功徳を具えております。私をすくおうという他力のはたらきは言葉で示すことができません。だから「称えない」のではなく、「称えようとすらしない」。つまり、不称光ではなく無称光であることが尊く、宗祖の讃えられたところであります。
超日月光
超日月光とは、太陽と月を超えるほど勝れた光を意味します。
阿弥陀さまの光とは、光の代表格とも言える太陽や月を超えております。何が超えているのか。ただ明るさだけではないでしょう。私の無明を破ってくださる智慧のはたらきが何より勝れておられる光をあります。そのような光に出遇わせていただいたよろこびを讃えられた言葉であります。