
「お坊さんの法話」って、
どのようなイメージでしょうか?
「むずかしいお話」
「おもしろくないお話」
そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。
話を聞くことや、
長い文章を読むことに、
疲れを感じる方もおられるでしょう。
ですので、
今ブログでは、
「一口法話」として、
主観的な文章を書いていきます。
みなさまといっしょに、
「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」
そう思えたら素敵だなぁと思います。
合掌
阿弥陀さまってなんなんだろう?
阿弥陀さまとは、「私たちを救うはたらきそのもの」です。
ただ私を救うために、私のところで私にはたらき通しであります。
でも、それじゃいまいちパッとしないから、「阿弥陀さまは〜〜〜な仏さまだよ」という表現をされる場合があります。
例えば、
「優しい仏さま」
「私の支えとなる仏さま」
「いつも寄り添ってくださる仏さま」
色々な表現がありますが、なんかパッとしないですよね。
阿弥陀さまの正式名称は、一応は「阿弥陀如来」ですが、「南無阿弥陀仏」というさとりのすがたを示し、はたらき続けておられる仏さまであります。
余計にパッとしなかったりして・・・笑
どうも、「優しい」、「いつも寄り添ってくださる」、「私の支えとなる」という人格的表現が先走りすぎている感じがします。
もちろん、私たちに理解しやすいように、人格的表現も大切なんですよ。
ただ、阿弥陀さまの大悲の御心は決して人格的表現ではあらわせません。
また、煩悩抱えた人間の優しさで、阿弥陀さまの御心を喩えることはできません。
つまり、私たちが頭で色々と考えても決して捉えることのできないのが阿弥陀さまの御心です。
私たちは、どうしても考えたり計らったりと、素直に捉えることができない心を持ち合わせています。
その私の心をたよりにして阿弥陀さまという仏さまを作り出すのではなく、阿弥陀さまの御心のままを聞かせていただくより他ありません。
「阿弥陀さまの御心のまま」について、少し難しい言葉を使いますと、「仏願の生起本末」と言います。
文字通りですと、「阿弥陀さまが願いを建てられた理由と、その願いが成し遂げられたこと」です。
要するに「救われ難い私を救うために、願いを起こし、願いが成し遂げられた」ということです。
そして、「南無阿弥陀仏」のお言葉となって、私たちに至り届き、はたらき続けておられるのが阿弥陀さまです。
その阿弥陀さまの、「必ず助ける」という願いを、余計なことを考えずに素直に聞かせていただくより他にありません。
だって、阿弥陀さまとは、頭で理解できるものではなく、私たちを救うというはたらきそのものですからね。
加茂仰順和上のお言葉に、
阿弥陀さまに問題とせられていた私たちがいて、その私たちを放っておけないという願いのままに、「南無阿弥陀仏」のお言葉を完成し、はたらき続けておられるのが阿弥陀さまという仏さまです。
現に私のもとに至り届いている阿弥陀さまのことを、頭で色々と考えるのではなく、
「疑いようのない仏さまのおすくいを、今、恵まれている」
そのように、ただ、聞かせていただくばかりですよね。