
「お坊さんの法話」って、
どのようなイメージでしょうか?
「むずかしいお話」
「おもしろくないお話」
そんなイメージをお持ちの方がおられるかも知れません。
話を聞くことや、
長い文章を読むことに、
疲れを感じる方もおられるでしょう。
ですので、
今ブログでは、
「一口法話」として、
主観的な文章を書いていきます。
みなさまといっしょに、
「阿弥陀さまがいてくれてよかったね」
そう思えたら素敵だなぁと思います。
合掌
みなさまは、「南無阿弥陀仏」のお念仏を称え始めたキッカケを覚えておられますか?
幼稚園で習った方もおられるかと思われます。
葬儀で、初めて称えた方もおられるかと思われます。
祖父や祖母に教えられた方もおられるかと思われます。
いつだか覚えていないという方もおられるかと思われます。
逆に、覚えてる方がおられたら、管理人は驚きます。笑
だって、今の日本では、お念仏の環境は特別な環境ではないですもん。
いつの間にやら、お念仏を称えるのが当たり前になっていますもん。
生まれた時には、すでに周囲の方々が称えていたお念仏ですもん。
でも、一つだけ間違いのない事実があります。
それは、私がお念仏を称えている現実そのものが、多くの方々が縁になっていますよね。
その多くの方々もまた、多くの方々が縁になっていますよね。
そうして、繋がってきて、今、当たり前のように称えさせていただいているのがお念仏ですよね。
私自身、最初にお念仏を称えたのはいつか覚えていないです。
いつの間にやら、お念仏を称える生活が当たり前になっていました。
当たり前のように、朝起きたら仏壇の前でお念仏を称え、風呂に入る時に、気付いたらお念仏を称えています。
そして、阿弥陀さまのお話を、当たり前のように聞かせていただいております。
そして、気づいたら、阿弥陀さまのお話を聞くのが何よりの楽しみになっていました。
お話を聞こうと求めた記憶もありません。
なんで、こうなったんでしょうね。
自分でもわからないです。
でも、一つだけわかっていることがあります。
それは、私がお念仏を称えている現実も、阿弥陀さまのお話を聞く楽しみを覚えた現実も、たくさんの人が縁になったからです。
そして、そのすべては阿弥陀さまのおはたらきの真っ只中にいたからです。
「私がお念仏を称えている」という事実が、「阿弥陀さまが私とご一緒」の事実です
お念仏を称えようともしない。仏教を聞こうともしない。
そんな私を放っておけない阿弥陀さまの御心がありました。
「お前を放っておかんぞ」
という、阿弥陀さまのはたらきがありました。
そのはたらきが私に届いている証拠が、当たり前のようにお念仏を称えている現実です。
私一人を、お念仏称え、浄土に生まれ往く身とするために、想像すらできない時間をかけて願い、私にはたらき通しの阿弥陀さまです。
その阿弥陀さまのすくいのすべてが、「南無阿弥陀仏」の六字のお言葉に込められています。
当たり前のお念仏は、本来ならありえないお念仏です。
そんなお念仏をいただける人生でよかった。
私まで届いてくれてよかった。
そう思える人生が、心のゆとりを与えてくれます。
みなさま、お念仏称えられる身でよかったですね。
その現実を味わい、「南無阿弥陀仏」という、絶対の心の拠り所がおられることを聞かせていただく人生を、ともに、明るく生かさせていただきましょう。