我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我 〜私を追いかけ捕まえ、決して見捨てないという仏さま〜

我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見
大悲無倦常照我

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。

源信和尚は、次のように述べられました。

「私もまた阿弥陀さまの光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。
しかしながら、阿弥陀さまの大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださっております」

見ることも感じることもできない

そのような悲しみだけではなく、

私を見捨てることのない阿弥陀さまがいてくれるんだ!

そのようなよろこびを感じます。

決して見捨てることのない阿弥陀さまがいてくれる

この句は、『往生要集』の、

我亦在彼摂取之中
煩悩障眼雖不能見
大悲無惓常照我身

という文に拠っております。

そして親鸞聖人は、この文を『尊号真像銘文』に、次のように一句一語ごとに解釈されております。

「我亦在彼摂取之中」といふは、われまたかの摂取のなかにありとのたまへるなり。「煩悩障眼」といふは、われら煩悩にまなこさへらるとなり。「雖不能見」といふは、煩悩のまなこにて仏をみたてまつることあたはずといへどもといふなり。「大悲無倦」といふは、大慈大悲の御めぐみ、ものうきことましまさずと申すなり。「常照我身」といふは、「常」はつねにといふ、「照」はてらしたまふといふ。無礙の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。つねにてらすといふは、つねにまもりたまふとなり。「我身」は、わが身を大慈大悲ものうきことなくして、つねにまもりたまふとおもへとなり。

「我亦在彼摂取之中」というのは、わたしもまた阿弥陀さまの光明の中に摂め取られているといわれているのであります。
「煩悩障眼」というのは、わたしたちは煩悩によって眼をさえぎられているということであります。
「雖不能見」というのは、煩悩の眼では仏さまを見たてまつることはできないけれどもというのであります。
「大悲無倦」というのは、阿弥陀さまの大いなる慈悲のはたらきはわたしたちを見捨てることはないというのであります。
「常照我身」というのは、「常」は常にということであり、「照」はお照らしくださるということであります。何ものにもさまたげられることのない光明は、信心の人を常にお照らしになるというのであります。常に照らすというのは、常にお護りくださるということであります。「我身」とは、わが身を、大いなる慈悲は見捨てることなく常にお護りくださると思えというのであります。

そして続けて、源信和尚がこの文を著された理由について、次のように示されております。

摂取不捨の御めぐみのこころをあらはしたまふなり。「念仏衆生摂取不捨」(観経)のこころを釈したまへるなりとしるべしとなり。

すべてのものを摂め取ってお捨てにならないという阿弥陀さまの慈悲のお心をあらわしておられるのであり、『観無量寿経』に説かれている「念仏衆生摂取不捨(念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)」の意味を源信和尚は説き明かしておいでになると知るがよいということであります。

『観無量寿経』の「念仏衆生摂取不捨」とは、阿弥陀さまの救いの光明を次のように説かれたものであります。

一々の好にまた八万四千の光明あり。一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。

さらにそのそれぞれにまた八万四千の光明があり、その一つひとつの光明はひろくすべての世界を照らし、仏を念じる人々を残らずその中に摂め取り、お捨てになることがないのである。

信心を賜った念仏者を決して見捨てない阿弥陀さまの「摂取不捨」のおはたらきであります。

この「摂取」について親鸞聖人は、「どんなに逃げまとうものでも追いかける阿弥陀さまのおはたらきですよ」と、説明されております。

煩悩に一喜一憂し、仏さまと反対方向へ向かい続ける私を追いかけ、お浄土という正しい方向へ導いてくださる阿弥陀さまであります。

阿弥陀さまのお救いは、自分だけではなく他者と一緒によろこぶ心を与えてくれます

我亦在彼摂取中」の「我亦」とは、「われは」ではなく「われも」と響くべきであり、如来の呼びかけに応じて、極重悪人として念仏もうすものの中に自分をおいて、「われもまた」と宣言されるところに、阿弥陀さまのお誓いを聞かせていただくもののすがたを教えられます。

源信和尚はどうしようもならない煩悩を抱える身であると知らされながらも、如来の仰せにしたがい、念仏もうすところに摂取の懐に抱かれてあるぬくもりを実感し、眠っている時も覚めている時も、いつでも照らし護っていてくださる存在がいることを、疑いのない事実として体感されていたのでありましょう。

そのように讃えられている、決して返すことのできない如来大悲の恩徳を、ともに温かな心持ちで聞かせていただきましょう。

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