弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説 〜阿弥陀さまのお救いが受け継がれてきた理由は、私たちが救われるためでした〜

弘経大士宗師等
拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説

弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまふ。道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。

浄土真宗のみ教えをお伝えくださった高僧方は、数限りないあらゆる世界のすべてのいのちをみなお導きになられます。
僧侶であってもなくても関係なく、今を生きるすべての方は、ただこの高僧方のみ教えを仰いで信じるべきであります。

「正信念仏偈」も、いよいよ最後の四句となりました。

私は、この句から、親鸞聖人はどこまでも「救われる立場」であったことを知らされます。

私たちに教えを伝えるのではなく、「七高僧の方々のお導きをともに聞かせていただきましょう」と、上下関係を作ることなくお勧めになっておられるのであります。

「正信念仏偈」の最後の四句で、阿弥陀さまのお救いを信じるべきことを示されております。

ここでは、
「今を生きるすべての方はただこの高僧方のみ教えを仰いで信じるべき」であると、私たちに浄土真宗のみ教えを聞くべきであると勧めておられます。

「弘経」とは「正信念仏偈」前半部分である依経段の『仏説無量寿経』の趣旨を弘められたことであります。

ゆえに「弘経大士宗師等」とは真実の経典を広められた七高僧という意味であります。

「拯済」とは救い助けることであり、「無辺」とは限りないことであり、「極濁悪」とは迷いの中を生きるいのちである私たちのことであります。

ゆえに「拯済無辺極濁悪」とは、「数限りない迷いの中を生きる私たちをお救いくださる」という意味であります。

「道俗」の道は僧侶であり、俗は在家であります。「時衆」とは、現在、み教えを聞いている人も含めた、今を生きるすべての人々のことであります。

ゆえに「道俗時衆共同心」とは、「僧侶も在家も、今を生きるすべての方々はともに心を同じくして」という意味になります。

ともに心を同じくしての続きが「唯可信斯高僧説」の句であります。「高僧説」とは七高僧のみ教えでありますので、「ただ七高僧の方々が説かれたみ教えを信じるべきであります」と、親鸞聖人は私たちに呼びかけておられるのであります。

私の救いとして、今回の句を受け取らせていただきましょう!

「信ずべし」とは、命令ではありません。

浄土真宗のみ教えに出遇い、他に救われる道のないことを知らされた親鸞聖人が、今を生きる私たちに向かって、「お願いだからこの方々のすすめを信じてください」とお勧めくださっておられる言葉であります。

つまり、「正信念仏偈」の中に出てきた「応信如来如実言」とある心を繰り返されております。

さとりの世界に生まれる方法を何も知らずに迷い続ける私たちがには救われる方法がありません。

そのような私たちに阿弥陀さまのみ教えを伝えるため、この世界にお現れになられたお釈迦さま、そして、そのみ教えを明らかにしてくださった七高僧の言葉を聞くことをお勧めになられております。

そうして百二十句の讃歌を終えられるのであります。

この四句について蓮如上人は『正信偈大意』にて、

「弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」といふは、弘経大士といふは、天竺(印度)・震旦(中国)・わが朝の菩薩・祖師等のことなり。かの人師、未来の極濁悪のわれらをあはれみすくひたまはんとて出生したまへり。しかれば道俗等、みなかの三国の高祖の説を信じたてまつるべきものなり。さればわれらが真実報土の往生ををしへたまふことは、しかしながらこの祖師等の御恩にあらずといふことなし。よくよくその恩徳を報謝したてまつるべきものなり。

と、阿弥陀さまのお浄土へ往生させていただくのは、七高僧の御恩によりますので、その御恩に報いるべきことを述べられております。

浄土真宗のみ教えの内容は、信心正因 称名報恩と表現されることがあります。往生の正因である信心が決定した後は、ただ阿弥陀さまの御恩に報いていく称名の生活であります。

そのことを「正信念仏偈」の最後に示されるところに、阿弥陀さまより信心を賜った念仏者の生き方を考え示していく大切さを知らされます。

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