摂取心光常照護 〜阿弥陀さまより信心を賜り、阿弥陀さまに護っていただける人生〜

摂取心光常照護

摂取の心光、つねに照護したまふ。

阿弥陀さまの光明は、いつも私たちを照らしお護りくださっております。

阿弥陀さまとは、木の像や、絵の像だけのことではありません。「私たちを必ず救いとる」という、お救いのはたらきそのものであります。

南無阿弥陀仏という聞こえる仏さまとして私たちにはたらきかける仏さまであり、光明となって私たちを照らし続ける仏さまでもあります。

つまり、私たちがいる場が阿弥陀さまのおはたらきの場なんですね。

今回の一句では、そのような、阿弥陀さまの光明に摂め取られ、いつも護られているという心光摂護の益を示されております。

「心光」とは「光明」であり、阿弥陀さまのおはたらきであります

今回の句では、親鸞聖人は「光明」のことを「心光」と示されております。

実は、光明には、「色光」、「心光」という意味に沿った呼び方があります。

色光」とは、身光・外光ともいい、仏さまの身体より発される光明であり、すべての衆生を平等に照らします。まだ信心をいただいていないものに、信心をいただけるように育てる光明であります。
心光」とは、智慧光・内光ともいい、仏さまの心より照らす光明であり、信心の人だけを照らすものです。信心をいただいたものを摂取して捨てない光明であります。
摂取」という言葉について、親鸞聖人は「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」と説明されております。

あらゆるいのちを救うというはたらきそのものが阿弥陀さまでありますから、どこまでも追いかけて決して捨てることはありません。そのおはたらきを摂取というのであります。そのおはたらきは、ひかりとなって私たちを正しい方向に導く智慧のおはたらきでありますので摂取の心光というのであります。

尊号真像銘文』では、次のようにわかりやすく示されております。

この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。

阿弥陀さまよりご信心を賜ったならば、摂め取って決して捨てないという阿弥陀さまの心光のおはたらきにより、お浄土に間違いなく生まれるなかまに定まるのであります。

阿弥陀さまのおはたらきは「十方世界」に届いておりますから、たとえ他宗教の方であろうと区別することはありません。

しかし、十方世界を照らしておられると理解するだけでは、阿弥陀さまのおすくいは成立しません。阿弥陀さまの本願を聞かせていただく信心の人となり、お念仏もうす身となってはじめてすくいが成立します。

ご信心を賜ったならば、阿弥陀さまのお救いから漏れることは決してありません

仏説観無量寿経』に、次のように説かれております。

一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。

阿弥陀さまより信心を賜り、お念仏を称える生涯を送られる方は、阿弥陀さまの光明のおはたらきから漏れることはありません。

念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」という言葉から、「大丈夫!!あなただけは放っておかない」という、力強さと尊さを感じます。

また「心光摂護の益」とは、お念仏を心の拠り所に生きる方が阿弥陀さまの光明にいつも摂めとられて護られる利益をいいます。

それでは、仏さまに護られるとは、どのような事態をいうのでしょうか。

仏様に護られているので、決して信心を失うことはありません

親鸞聖人は『一念多念文意』に次のように示されております。

「護」はところをへだてず、ときをわかず、ひとをきらはず、信心ある人をばひまなくまもりたまふとなり。まもるといふは、異学・異見のともがらにやぶられず、別解・別行のものにさへられず、天魔波旬にをかされず、悪鬼・悪神なやますことなしとなり。

「護」 とは、場所によって避けることなく、時によって区別することなく、人によって嫌うことなく、信心を得ている人を絶え間なくお護りくださることをいうのであります。
護るというのは、他の教えや他の見解にしたがう人たちによって信心を破られることがなく、自力の心で念仏する人たちによって信心をさまたげられることがなく、魔王にも襲われることがなく、邪悪な鬼や神もその人を悩ますことがないということであります。

阿弥陀さまより信心を賜った方は、いつも阿弥陀さまの心光に包まれて、お念仏の妨げをしようとするあらゆる者から護られ支えられるのであります。

現代では、あらゆる宗教があり、人を惑わしているようです。「病気を治しますよ」、「お金が儲かりますよ」といった、人の欲望をかき立てる宗教も多く存在します。

宗教によって、本当に全員の願い事が叶っているのでしょうか。叶うのであれば、病院は必要ないはずであります。

しかし、朝から多くの患者さんが詰め掛ける病院は多く存在します。それとは逆に、もしも宗教のはたらきによって願い事が叶うのならば、私たちはどのような願い事をするでしょうか。

人としてのあらゆる才能も、理想的な容姿もすべてを手に入れ、自分が幸せになるために必要なものは、努力せずに願いだけで手に入れようとするのでしょうか。

「思い通りにしたいけどならない」という気持ちから苦悩する私たちが、何もかも思い通りにしたら、きっと世の中は成り立たなくなるでしょう。余計に欲望を掻き立て続けることと思います。

浄土真宗のみ教えを学んでも、目に見えるような欲望が叶うわけではありません。

いずれは失ってしまう目に見える欲望ではなく、本当の心の拠り所を与えてくれるのが浄土真宗であります。

人は苦しみから避けることはできませんが、その苦しみの中で、苦しみを受け止める力を与えてくれるのが浄土真宗であると、私は実感しております。

そのような私たちを救おうという阿弥陀さまの光明を、親鸞聖人は「摂取心光常照護」と讃えられました。

阿弥陀さまの光明がどこまでも照らしてくださる、浄土真宗のみ教えを聞かせていただく生涯を、ともに歩ませていただきましょう。

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