一生造悪値弘誓 至安養界証妙果 〜どんなに罪を作り続ける私であっても・・・〜

一生造悪値弘誓
至安養界証妙果

一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといへり。

道綽禅師は次のように述べられました。
「たとえ、悪をつくり続けるような生涯であっても、阿弥陀さまのお救いを聞き信じる身となったならば、お浄土に生まれさせていただき、この上ないさとりをひらきます」

悪を作ってもいい」のではありません。

どんなに注意しても、どんなに自分に厳しく生きようとしても、かならず自分中心の想いに支配されてしまいます。

気付いたら、自分中心にあらゆる判断をして、罪を作り続けてしまいます。

「悪を作ってもいい」のではなく、「悪を作ってしまう私なんだ」ということを、知らされます。

しかし、それは悲しみだけではありませんでした。

そんな私を見捨てない阿弥陀さまがご一緒くださっている生涯をともに歩ませていただきましょう。

どんなに罪を作り続ける私であっても・・・

この句は『安楽集』の、

『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。

『大無量寿経』に説かれてあります。
「もし衆生があって、たとい一生のあいだ、悪を造っても、臨終において、わが名を称えて十念相続するものが、もし往生しなければ、正覚をとるまい」と。

という、阿弥陀さまのご本願と、『仏説観無量寿経』下下品の文意を、道綽禅師によって合わせられたお言葉に拠っております。

それでは、『仏説観無量寿経』下下品とはどのような文なのでしょうか。

その全文を掲載いたします。

下品下生といふは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとする時に臨みて、善知識の、種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終る時、金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくに、すなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説きたまふ。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。

下品下生というのは、もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。
このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならないのである。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、「もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい」と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。
そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づけるのである。

下下品とは下品下生と呼ばれており、五逆・十悪といった様々な悪業を犯した、本来ならば地獄に落ちるべき方のことであります。

しかし、そのような方であっても、ただ仏の名を称えるだけで罪が除かれ、極楽浄土に生まれることができ、ただちにさとりを求める心を発すのであると説かれております。

つまり、下下品と呼ばれるひたすら罪を重ねるような方であっても、阿弥陀さまのお誓いによって完成された名号南無阿弥陀仏のはたらきの前では何の障りにもなりません。

必ずお浄土に生まれさせていただき、仏のさとりをひらく身にさせていただけます。

そのことを道綽禅師のお言葉を通して親鸞聖人が讃えられたのが、今回の「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」という二句でありました。

弘誓」とは、阿弥陀さまのご本願であります。「誓」でも意味が通じそうでありますが、「弘」という字で大いなるご本願と修飾してあります。そして「値弘誓」とは、ご本願を信じることであります。

至安養界証妙果」とは、安養界は安楽国ともいい、阿弥陀さまのお浄土のことです。

「妙果」とは、究極の仏のさとりをひらくことであります。

一生悪のみをなして生きてきた方が、阿弥陀さまのお誓いを信じて念仏称える身になったならば、お浄土に生まれて仏のさとりを得るという、仏教の目標が達せられるのであります。

道綽禅師のみ教えはこの二句に凝縮されております

末法の時代であるから私たちの能力が劣り、怠け心があるとされ、聖道門を廃し浄土門を立て、ただ念仏一行を勧められました。

そして、そのような私であろうと何の障りにもならない阿弥陀さまのお誓いによって救われていくことを示されております。

道綽禅師の示しから、自分自身の至らなさと、そのような自分が救われていく絶対の安心を感じずにはおれません。

そんな安心の中の生涯が、仏法を聞かせていただく生涯であると知らされるところであります。

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