極重悪人唯称仏 〜自分自身のことを「極重悪人」と表現し、私たちにお念仏を勧めてくださった源信和尚〜

極重悪人唯称仏

極重の悪人はただ仏を称すべし。

きわめて罪の重い悪人は、ただ念仏によって救われていくのであります。

源信和尚は「念仏証拠」の文に、次のように示されております。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」

三つには、 四十八願 (大経) の中で、 念仏の法について、 特別に一願を発して、「少なくとも十念して、もし往生しなかったならば仏にはなりません」と誓われてあります。
四つには、『観経』に「極重の悪人は、他の方法がありません。ただ弥陀の名号を称念して極楽往生を得るばかりである」と説かれております。

時代を超えて私に届く源信和尚のお導き

阿弥陀さまのお誓いになられた四十八願の中でも、念仏往生をお誓いになられた第十八願は特別な願であると重視され、さらに『仏説観無量寿経』の意味に忠実に、極重の悪人は念仏より他にお浄土に生まれる方法はないと示されております。

これより、『往生要集』に説かれた最も重要な行は第十八願に説かれる称名念仏であることがわかります。そして、その他力の念仏を称える対象として、今回の句では「極重悪人」と示されております。

一見、源信和尚が「極重悪人」へお勧めになっているようでありますが、決してそうではありません。

『往生要集』の冒頭に、

それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、たれか帰せざるものあらん。ただし顕密の教法、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しとなさず。予がごとき頑魯のもの、あにあへてせんや。

そもそも、極楽に往生するための教行は、濁りはてたこの末の世の目とも足ともなるものであります。僧も俗も、身分の高い者も低い者も、誰かこれに従わぬものがありましょうか。
しかし、顕教や密教のみ法はその説くところがさまざまであり、事(有相の行)や理(無相の行)に依る業因はその行が多いのであります。それらは智慧がさとく、努力を怠らぬ人は、むずかしいと思わないでありましょうが、私のような愚かなものは、どうして進んで修行することができましょうか。

と、源信自身が自らのことを「予がごとき頑魯のもの」と告白されております。

極重悪人唯称仏」とは、源信が高いところから私たちに声をかけていたのを讃嘆されたのではなく、源信自身が「極重の悪人である私のための第十八願である」と表明され、それを親鸞聖人が讃嘆されておられると、受け取らせていただくべきでしょう。

自ら悪業を作り地獄に沈んでゆく私たちを放っておけないという御心から、阿弥陀さまはお誓いを建てられました。

阿弥陀さまは、あらゆるいのちをすくい取るための行を南無阿弥陀仏という六字のお言葉に仕上げ、「このみ名を称えてくれよ」と喚びかけ、受け取ってくれよという仰せなのであります。

この句のいただき方でありますが、源信和尚が「仏の名を称えよ」とすすめられたと読むのが一般であります。

しかし、お釈迦さまが経典『仏説観無量寿経』を通して源信和尚に呼びかけられた仏説と受けとることもできるのではないでしょうか。

その仏説を、源信和尚は自らを「極重悪人」と位置づけて讃嘆されたのが今回の句でありましょう。

私たちも、源信和尚のように我が事として受け取らせていただき、ただ称名念仏の人生を送らせていただきませんか。

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