能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 〜「そのまま救う」の阿弥陀さまに抱かれた、よろこびが耐えない人生〜

能発一念喜愛心
不断煩悩得涅槃

よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

阿弥陀さまより信心を賜りお救いをよろこばれる方は、自ら煩悩を断ち切らないまま、お浄土で仏のさとりを得ることができます。

この句の内容を表面だけで考えますと、

英海
お救いをよろこばないと救われないんだね!!

そのような見解に陥りそうでありますが、それは大きな間違いであります。

決して、「お救いをよろこぶ」という、自らの心が救われる条件にはなりません。

救いの条件は、阿弥陀さまより賜る信心ひとつであります。

そして、信心を賜った私の「よろこびのすがた」をここで示されているのであります。

「一念喜愛の心」は信心をあらわす言葉だった!!

一念喜愛の心」とは、真実の信心であり、阿弥陀さまより賜る信心のことであります。

一念」とは、はじめて信心が起こった時をいわれることが多いですが、ここでは、私たちの煩悩の混じり気のない純一の阿弥陀さまより賜った信心をいわれております。

喜愛の心」とは、「歓喜愛楽の心」という言葉の省略であります。

信心を賜ったならば、お浄土に生まれられることがまちがいなくできるという確信から、安心した心になるので、信心の替え名として用いられております。

このような信心をいただいた時に得る利益を、ここでは「不断煩悩得涅槃」と示されております。

涅槃」とは、さとりをあらわす言葉でありますので、「煩悩を断ち切らないまま、さとりを開くことができる」という意味になります。

煩悩があるまま「そのままのあなたを救う」という阿弥陀さま

本来、仏道とは、頑張って修行して、煩悩を断ち切って仏のさとりを得ることであります。

しかし、煩悩を断ち切るということは、私たちが生きている末法という仏さまのみ教えが消滅してしまう時代には困難を極めます。

それでは、私たちはさとりを得ることはできません。

そのような私を決して見捨てておけないという御心から、「あらゆるいのちを必ず救いとる」というお誓いを建てられたのが阿弥陀さまでありました。

どれほどの煩悩を抱えておろうが何の心配もいらないほどの阿弥陀さまのお誓いであります。

ゆえに、そのお誓いをそのまま聞かせていただく信心を賜った方には、煩悩を抱えたそのままで救われるという、本来ならばありえないような利益が恵まれます。

阿弥陀さまの、

「そのまま救うぞ!」

そのようなお心が、今回の二句に示されております。

「煩悩があってもいい」ではありません。煩悩を恥じらいつつ、お救いを尊ぶ人生です。

親鸞聖人は七高僧のお言葉を通して阿弥陀さまを讃えられた『高僧和讃』に次のような二句を詠まれております。

無礙光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる


罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし

 煩悩を消滅させるのではなく、氷が水に変わるように、煩悩そのままをさとりの功徳に転ずるはたらきが、阿弥陀さまより賜る信心には具えられております。
煩悩がさとりの功徳に転ぜられるのですから、私たちの煩悩がいかに深く悩ましいものであっても、何の問題にもなりません。

また、親鸞聖人が讃え詠まれた「こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」という言葉から、「どれほどの煩悩を抱えていても大丈夫だったんだ」という、救われた感動を僕は感じます。

決して無くならない真っ暗な煩悩の中を生きている凡夫でありますが、阿弥陀さまの功徳は、それ以上のものであります。

こうして、自身の煩悩の深さに悩まされつつ、その煩悩そのままを丸抱えで救いとろうという阿弥陀さまのお誓いを、そのまま聞かせていただき、ただよろこばせていただくばかりの生き方が、浄土真宗のみ教えをいただく念仏者の生き方であります。

「正信念仏偈」で、「能発一念喜愛心」という句の中の「」は、直接的に内容に関係していないようであります。それでは、何故、この言葉を使用されているのでしょうか。

この「能」という言葉で、阿弥陀さまのお心に出遇うことができましたという、親鸞聖人の感動が込められているのではないでしょうか。

本来ならば、遇えるはずのない、煩悩抱えたそのままの私を救うはたらきに、能く能く遇えましたね。どうか、ともに、よろこばずにはおれない「一念喜愛心」をいただくお念仏の生涯を送らせていただきましょう。

そのように、親鸞聖人が時代を超えて私たちに伝えてくださっていると受け取らせていただくところであります。

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